ヴァンテアン号の船上と京都のアーズローカスとリーガロイヤル京都のデナーショー
初めて船上で歌った。
船上と言っても勿論デッキではなくて
船の中のホールの様な場所なので中にいて
窓から外の眺めを見ない限り
船に乗ってるという感覚はほとんどない。
特に食事をしながらおしゃべりに興じていると
町のレストランにいるのとそんなに変わらないだろうが
僕は昼夜二回公演のため
ほとんど昼前から乗り込んで1日船上で過ごしていたので
やはり揺れも確実に感じ、初めてパリからロンドンへ船で
行った時の事を思い出して少し心配になったりした。
1980年初めてのロンドン行きの時は大いに船が揺れて
備え付けの袋を手に握りしめていた。
ロンドンまでなんとか問題なく着いたがその時の気分が
強く記憶に残っているので船は僕にとって
少し鬼門になっている。
暑い中大勢のお客様が来て下さった。
ありがとうございます。
昼の部は景色を見るという都合上室内が暗くならずに
通常のコンサートの雰囲気は出しづらく
歌に集中して頂くのが難しかったことと思っていたが
それでも楽しんでお帰りいただいたようで
よかったと安堵している。
夜はまるでマンハッタンを思い出させる様な
イリュミネーションで飾られた橋など
美しい夜景が目の前に広がっていた。
クルーズの数日前に京都でも歌った。
アーズローカスという僕が好きな音楽空間が
京都の北にある。
京都で繊維関係の会社を経営されているご夫妻が
大人の小学校と題して作られたビルの中では
よう様な教室があり会員になるとそれぞれの趣向に応じて
語学、音楽、ダンス、陶芸などいろいろなもの
を学べる。プールもあるその5階建てのビルの
一番最上階に音楽ホール;アーズローカスがある。
少し楕円形で天井の真ん中には部屋の永さだけ
ガラスをはめた明り採りがあって天気のいい昼間は
自然光が優しく降り注いで本当に気持ちがいい。
スタインウエイが一台おかれていて壁には質のいい
反響版が付けられている。
ここで僕は今年の5月から2ヶ月に一度
<こんなシャンソン知ったはりますか?>
と題したミニコンサートを行っている。
行っていると書いたが5月の末に初めたばかりで
今月の2日に二回目を終えた。
いまから5年程前に僕はこのホールを知り是非ここで
普段コンサートやディナーショウでは歌えない
地味だが美しい、あまり日本では知られていない歌を聞いて
頂くミニライブをピアノと二人だけでしたいと思った。
このアーズローカスを紹介してくれた京都在住の
ピアニスト作曲家の藤林由里さんと準備をして
2002年から2004年にかけて2度ばかり
行いその後うまくスケジュールがあわなくなって
中断したままになっていた。
2年前、日本に定期的にそれも長い期間で帰ってくる
と決まった時にこのアーズローカスでのコンサートを
是非再開したいと思いやっと念願がかなって
今年の5月に再開した。
ライブは1日2回公演で午後の2時と7時。
歌詞の内容に触れたり歌が作られたエピソードを話したり
同じ歌を解釈を変えて2度歌ったり普段コンサートでは
出来ない試みをする事にしている。
今のところ全くと言って良い程告知が出来ないので
知る人ぞ知るのような形での開催しか出来ていないが
今後方法を考えて出来るだけ多くの方、京都以外
に遠くからも来て頂ける様になれば嬉しいと思っている。
8月2日に行ったものも東京などでの大きなライブが
頭を占領していて気がついたのが2週間前。
一晩かかって手書きのDMを作り発送したのはわずか
公演の10日前だった。
先日の演題は<ジャック・ドウーエ>という歌手のこと。
このブログでも書いたジャック・ドウーエのことを話し、
彼のレパートリーの中からテッサの歌、
牧場に咲く犬サフランの花、宮殿の階段で、
枯葉などを歌った。
僕にとっては懐かしさで満たされた時間であり
聞きに来て下さった方には珍しい歌との出会い
を喜んで頂いた時間になった。
次回は10月を予定しているがそれまでに9月9日の
リーガロイヤルホテル京都での17回目のデイナーショー
を成功させなくてはならない大役が待っている。
ずっとフランスにいてその上地味な活動をしている
僕をリーガロイヤルホテル京都は
毎年京都に招聘して支援を続けて下さっている。
17年もの長い間毎年必ず来て下さるお客さんも
おられる。
今年もぜひ春秋の間がお客さんであふれる一夜にしたいと
願っている。
今年は日本でもなじみの深い、小さな花、ピレの子供達、
ラストダンスなど1960年代のフランスの
ヒット曲を中心に昨年から歌い始めた日本の詩人の
歌を交えて歌いたいと思っている。
何卒万障お繰り合わせの上是非ともお越し願いたい。
http://www.rihga-kyoto.co.jp/event/wasaburo/index.html
今年のミュージシャン:鈴木厚志(ピアノ)、
坂上領(フルート)ウエキ弦太(ギター)、
服部正美(ドラム・パーッカッション)
Posted by : ワサブロー | 日記 | 01:25 | comments(0) | -
街頭で歌いました
昨日野外特設会場というコンサートホール以外の場所で
初めて歌った。
今年は日仏友好150周年でその記念の催しが日本の各地で
開催されている。
そのうちの一つが東京八重洲駅で1週間、毎日色々な
フランスに関係のある方が
地下街に作られたステージでトークショーなり
ミニライブなりをするという事になっている。
出演されている方々すべて僕以外日本では
名前の知られている方のようだが僕はどなたも存じない。
まあご一緒するわけでもないので存じなくても
支障はなかったが、時々となり合わせに座っていて顔も名前も
知らなくて大変失礼をしてしまった事もいままでに
何度もあるので(そういうとき大方はなんで私の事を
あんたは知らないの?ときまって怪訝な顔される)
そんな時はせいぜい言葉少なめに振る舞う事にしている。
今回は元日本放送のアナウンサーで今はフリーで
仕事をしておられる小口絵里子さんが進行役で
僕は初めてお目にかかった。
気さくで奇麗な方で楽しくお話もさせて頂いた。
大勢の人が行き交う雑踏の中で歌うのは全く初めてで
始まるまでとても不安で
生まれて初めてステージを踏む様な気分だった。
昼間はトークショーと題されて小口さんの質問に答える様な
形で色々お話をした。そのあと2曲ほどカラオケで歌った。
僕はせいぜい数人が立ち止まり物見遊山に見て行かれるのだろう
と思っていた。
始まってステージに出てみると大勢の方がステージの前に
置かれた椅子に座ってられた。
さすがに昼間は食事に出て来られた人が大半の様なので
長くはとどまらず去って行かれる方が目立った。
僕は今まで歌いだしたら席を立つ人は誰もいない状態でしか
歌った事が無い。
ホールでもし途中に立って出てく人や立たなくても時計を
見てられるのが偶然目に入るとその他の何百人の方がきっちり
聞いて下さっていようともその時計の人に注意と目が
いってしまい退屈なのだろうとその日のすべてが
だめになった様に思ってしまう。
この日はそんな事言っていたらだめですよ、
用事があってみなさんこの地下街に来てられるんだから
ちょっと聞いて帰るとか立つとか当然の事なので!
とマネージャーから重々言い聞かされていたので座っている人が
入れ替わる度に、つまらなくて立たれるのではない、
用事があるので帰らはるんや、と自分自身に言い聞かせて
昼間は何とか務まった。
次が夕方6時から始まった。
5曲歌う事が決まっていてピアニストの鈴木さんも来てくれた。
昼間のトークショーは何とかクリヤー出来たが、
夜は一応ミニという形容詞が付いていてもライブである。
さあ!夜はどうなるか、控え室で折の中の熊(僕のイメージでは
熊よりコヨーテという感じかもしれませんが)のように
うろうろして全く落ちつきが無くなり、血の気も無くなり、
自信もまったくなくなっていた。
僕はどんなステージであれ困ったことにひどい上がり性で
開演15分前にはスタッフやミュージシャンに<帰りたい>とか
<今ここが火事になって中止になればいい>などと不謹慎な事を
一人でわめき散らしている。
それでもステージに上がってしまえば一人になれる空間が
待っているのがわかっているが今日は雑踏の中、街頭である、
ティッシュペーパーを配っている人の様に皆、
無視して行くんだろう、
きっと、と憂鬱状態が100パーセントに達した時に
呼ばれてステージに上がった。
まず驚いたのは昼間以上の人が椅子に座ってられた。
立って見ておられる方も含めて優に100名以上の方たちが
見ておられた。
もちろんその後ろには行き交う大勢の人たちが川の流れの様に
交互に通り過ぎて行く。
その通り過ぎて行く人たちを見ていると不思議に
気分が落ち着いて来た。
映画の1シーンの中にいる様な感じがしてその流れに身を
ゆだねるような気分で歌い始めると歌は遠くにまで
流れに乗って飛んで行った。
茨木のり子さんの詩、わたしが一番きれいだったときを
このような環境で歌えるとは思ってもいなかった。
人の流れの中に柱に背を持たせてじっと聞き入って
下さっている方がいた。
その前を、その後ろを多くの人が通り過ぎて行くのに
その人はじっと僕の方を見つめながらこの茨木さんの
怒りの叙情詩の一語一句を体全体でつかむ様に聞いてられた。
この夜、僕の歌はその大勢の人の流れの中に沈まずに
水中花のごとく
一気に咲いたような気がして嬉しかった。
Posted by : ワサブロー | 日記 | 11:24 | comments(0) | -
2008年スイートベージルSTB139
今年の僕の日本公演は6月25日の六本木スイートベージル、
STB139で始まる。
昨年のSTBライブはBSIで2回に分けて放映された。
この映像が編集されて夏にはDVDとして発売される予定に
なっている。このサイトでも発売日など詳細が報告されるので
是非ご覧になって頂きたい。
それで今年のSTB139ライブだが6月25日夜7時半開演。
いつもの様にSTB139では6時から喫茶・食事が出来るので
ご自由に早く来て頂き開演前の時間を楽しんで
頂くことも出来る。
僕はライブとコンサートの違いがよく解らずいまだに
いい加減に使っている。
勿論僕が日本にいた頃もライブという言葉はあったのだが
あまり使った覚えがない。
フランスでもこのごろは英語ばやりでこのライブliveはもう
フランス語としてとくにCDやDVDのジャケットには
普通に使われている。
まあコンサートとライブの違いがどこにあるのかは
また別の機会に考察する事にして今日は今年6月25日に
予定されている、スイートベージルSTB139のステージの
事についてちょっと書いておこうと思う。
今年は1960年代のフランスの歌を歌いたいと思った。
60年代は世界的に音楽が変わった時代でビートルズが現れ、
それからウッドストックなどロックが主流になって行った。
フランスの音楽の世界もこの時代を
境に大きく変わった。
それまでキャバレーと呼ばれる、歌を聞いて
お酒を飲んだり食事が出来る場所で多くの歌手が
デビューをした時代からテレビやラジオなどの放送メディアと
レコードが中心になった。
サンジェルマンデプレは衰退してジョニー・アリディや
シルビー・バルタン、シェラ、アダモなどイエイエと
呼ばれる若い歌手たちがメディアにのって現れた。
僕はこの60年代に初めてエディットピアフの声を
ラジオで聞きイブ・モンタンやシャルル・トレネを
知ったのもこの時代なので懐かしい。
小学校の高学年の級友たちには全く関係のない世界で
誰も興味すら示さなかった。
僕がその当時聞いた多くの歌は60年代の歌ではなくて
きっと50年代の歌だったのだろう。
アダモやジョニー・アリディやシルビー・バルタンを
聞いた覚えはない。でも記憶の奥にジャック・ブレルの
行かないでやモンタンの小さな三つの音符、
ブールビルではなかったがパタシュの歌う
アイルランドのバラードなど60年代にヒットした歌も
聞いた覚えがある。それから十数年経って
僕はフランスに発った。
フランスでは60年代の流行は終わりモンタンもトレネも
歌わなくなっていた。
それ以来60年代は記憶の音楽ライブラリーに
仕舞い込まれてほとんど忘れていた。
たまに1曲,2曲60年代の意識無しに
歌ったことがある以外は。
今回のSTBのプログラムを考えた時に初めてシャンソンに
出会った60年代の歌を歌ってみようと思った。
探してみると面白い曲、楽しい曲、美しい曲が一杯あった。
リズムも豊富で、今の感覚でも懐メロではなく十分に歌え,
演奏出来る曲を選んだ。
映画俳優のブールビルが歌ったアイルランドのバラードと
フルーツサラダの歌。
フルーツサラダはハワイの女の子の名前で恋人の男の子が
小屋にかけてあるココナツの実やパイナップルは
もう食べ飽きたわ、今僕が食べたいのは
何かわかっているやろと話す、
可愛くてちょっとエロチックな歌。
アンリ・サルバドールのシラキューズは世界文化遺産にも
指定されてるイタリア、シシリー島にある
古代都市シラクサのこと。
シラキューズに行きたい、ケルアンも見たい、
大きな海鳥が羽を風になびかせて遊んでいる様子を見てみたい、
富士山の頂上でベローナの恋人たちの夢を見たいと
美しい光景が目の前に広がって流れていく。
映画<日曜はだめよ>の中でメリナ・メリキュリが歌った
ピレの子供達、同じくアンリ・コルピの映画<かくも長き不在>
の中で歌われた三つの小さな音符、それに日本でもヒットした
小さな花など僕にとっては初めてのちょっと毛色の変わった
歌を選んでみた。それらの歌と一緒に今年も日本の詩人を
歌う事にしている。
もう何度か聞いて頂いている茨木のり子さんの
<私が一番きれいだったとき>と
今年は与謝野晶子の<君死にたもうことなかれ>この2曲は
吉岡しげみの曲、それに加えて谷川俊太郎の詩に武満徹が
曲をつけた<死んだ男の残したものは>、この3曲を選んだ。
素晴らしく、偉大な詩であり3曲とも結構長い詩である。
僕の力が及ぶか心配だ。
その他毎回コミックバージョンを1曲、
プログラムにいれている。
去年は<聞かせてよ愛の言葉>のパロディを歌った。
今年はまだ決まっていない。
好きよ、メケメケなどしばらく歌っていないものもある。
もしご希望があれば書いて頂きたい。
新作が出来ればいいのだが、思う様にアイデアは出て来ない。
アイデアも頂きたいと思っている。
いずれにしても6月25日は東京で皆様に会える、僕とって
数少ない貴重な機会なのでいいコンサートにしたいと
今から張り切っている。
今回はサウンドが少し変わる。
新しいステージを楽しみにぜひ大勢お越しいただきたい。
Posted by : ワサブロー | 日記 | 01:51 | comments(8) | -
ジャック・ドゥエ〜jacques Douai
僕が30年間一度もレパートリーから外した事の無い
歌がある。
File la laine 糸紡ぎ、
1949年にロベール・マルシーが詩と曲を書き、
創唱者のジャック・ドゥエを世に知らしめた歌でもある。 
この歌を僕は33年前に京都で知った。
僕はその当時京都の北山にあったルルソン・キ・ボア
(l'ourson qui bois)という店でジャック・プレベールや
ルイ・アラゴンが書いた詩的シャンソンや
<宮殿の階段で>のような古いフランス民謡の様な歌を
歌っていた。
そこで一緒に歌っていたピエールというフランス人の
レパートリーの中には僕の知らない歌が一杯あった。
その中の一つが<糸紡ぎ>で、彼はギターを弾きながら
毎晩この歌を歌った。ルフランの美しい、シンプルな
この歌はジャック・ドゥエの歌だと教えられて驚いた。
フランスでもあまり知る人はなく、まして日本では
ほとんど誰も知らなかったジャック・ドゥエの名前を
僕はHHKの番組で初めて日本に紹介された時に
覚えて知っていた。
この番組では冒頭、パリの街頭にマイクを持った人が
通行人を呼び止めては<ジャック・ドゥエ、ご存知ですか?>と
尋ねていた。10人に6人は知らないと言い、
2人は聞いた事があると言い、残りの2人だけが
<知っていますよ、歌手でしょ>という結果だった。
ジャック・ドゥエは戦後1947年にパリのポムという
キャバレーでデビューした。
その後クロード・リベットというキャバレーで誰も知らない、
あるは遠く昔に忘れられた古い民謡や地方伝説の歌それに
色んな詩人の書いた詩に曲が付けられた詩的シャンソンを
歌って学生や知識人層の人気を得た。
レパートリーのほとんどが地味であるが美しく、
詩情にあふれ繊細な歌ばかりで
アカデミー・シャルルクロ・レコード大賞を
何度も受賞している。
そのNHKの番組では60年代になって夫人のテレーズ・パローと
組織していたバレエ・ナショナル・ポピュレールのことも
報道されていた。
僕は今まで聞いていた他のシャンソンとは違ったドゥエの歌う
美しい歌の数々に惹かれてこの歌手の事をもっと知りたく、
もっと他の歌も聴きたくて早速レコードを探しに行った。
1975年初めてのパリから帰って来た年の事である
コロンビアから出ていた3枚のレコードを見つけた。
いずれもシャンソン評論家芦原英了の解説付きでジャケットも
美しく品のあるLPだった。


今から思うとこれが日本で手に入ったジャック・ドゥエの
すべてのレコードだった。
その中にはジャン・ジュネの詩にエレーヌ・マルタンが
曲をつけた死刑囚、劇作家のジャン・ジロドーの詩に
モーリス・ジョベールの曲がついているテッサの歌、
ルイ・アラゴンの詩にジョルジュ・ブラッサンスの曲で
幸せな愛はない、カナダのフェリックス・ルクレールの
山ウズラ、そのほか破れた網、青春は今、髪、
ある日君を失ってなどの珠玉の歌と共にサンマロでのような
民謡、それにジャック・プレベールの枯葉も収められていた。
ジャック・ドゥエが枯葉の創唱者である事はフランス人でも
知っている人はほとんどいない。
<日々の泡>を書いたサンジェルマン・デプレの伝説の小説家、
ボリス・ビアンは彼のライナーノートに枯葉は
ジャック・ドゥエが初めて歌いそれを僕は聞いているが
今となっては誰も知らないと書いている。
後になってフランスで初めて実際に聞いたジャック・ドゥエの
枯葉は誰のものよりも寂しくてまた同時に美しく僕にとっては
今まで聞いた枯葉の中で一番素晴らしかった。
今から思えば不思議な事にこの三枚のレコードには彼の1番の
ヒット曲である、<糸紡ぎ>は入っていなかった。
ピエールから教わった糸紡ぎがその後の僕の人生を
大きく変える事になるとは思ってもいなかった。
1979年に僕は再度フランスに渡った。パリで歌うために。
誰も知り合いはいなかったのでパリに着くとすぐ
日本で名前を知り、気に入っていた歌手すべてに
手紙を書いた。
歌を教えてほしい、歌う場所を教えてほしいと。
今考えれば厚かましく思い出すと冷や汗ものだが、
若かったその当時、僕は物怖じというものを知らなかった。
その上それぞれの歌手の住所は知っているはずはなく
すべてレコード会社気付で送っているのできっと
手元に届いたものはわずか1、2通だった違いない。
勿論誰からも返事は来ず強気の鼻っ柱が折れそうになったとき
1通の手紙を受け取った。
ジャック・ドゥエの秘書から届いたその手紙には
<ムシュウジャック・ドゥエは今カナダに公演中です。
出発前にあなたの手紙は受け取っていて是非お会いしたいと
申しております。帰りましたら連絡差し上げますのでしばらく
待っていただけます様に宜しくお願い致します>と
書かれていた。
それからしばらくしてドゥエから電話があって会う事が出来た。


かれは遠い日本の若者(僕は20代で若かった)が
自分の事を知り自分の歌、糸紡ぎをましてやフランス語で
歌っている事にたいそう驚き、嬉しそうだった。
彼に出した手紙と一緒に送っておいたカセット
(カセットの時代だったんです)も気に入ったらしく翌月に
予定されていた彼のTV番組に早速招待してくれた。
このようにしてジャック・ドゥエとの縁が始った。
その当時彼は奥さんでバレリーナーだったテレーズ・バローを
病気でなくしたところで淋しい時期だったのだろう。
ジャック・ドゥエはベルギー国境近くリルの下に位置する
ドゥエ市(Douai)の出身でその街の名前をとり
アーチストネームとした。
ドゥエはパリ15区に住んでいた。
週末やバカンスになると古くから陶器の町として栄えたジアン
(gien)の田舎の家に出かけた。
パリから150km程離れたところにいつも
60年代のプジョーを飛ばして出かけて行った。
ほんとうに<飛ばして>という表現が合う様な運転で
常に160キロでビュンビュン走り前に車があると
ライトで合図をしてそこのけそこのけ、
という感じで走り抜けて行った。
僕は連れてもらうといつも前の助手席に座らされたので
結構怖い時もあり自然に自分の足で架空のブレーキを
踏んでいた。
静かで知的な感じの歌い方からは対照的な運転だった。
ジアンの家には梨やリンゴ、花梨、サクンボが実る桜の木と
一緒にクルミの木もあって大きな庭が広がり,秋になると
壁には葉が紅葉して美しいツタが絡まっていた。
内装も品良く趣味の良い調度品で囲まれていて、
ドゥエはこの家が今の様に美しくなるには10年、
魂が隅々まで宿るのに10年かかったと言っていた。
暖炉のある居間で昼間によくギターを弾きながら僕の歌に
伴奏をつけてくれて気がついたところは直してくれた。
贅沢な個人レッスンを受けていたわけだが
歌の事よりもとくにdiction(発音や朗読法)を直された。
鉛筆を口と水平に歯で噛みその状態のまま歌う。
口に鉛筆が入ったままそれでもきっちり聞き取れる様に
発声しなければならない。これは結構難しい作業で
舞台役者が必ずする発音のトレーニングでその後も僕はパリで
オルトフォニスト(orthophoniste,発音矯正師)に
何年か通った。
ジャック・ドゥエの歌に対する姿勢はとても真摯で厳しく
選曲に関してもまるでたわわに実ったさくらんぼの中から
厳選された美しく甘い実を見つけ出す様に時間をかけて
優れた歌を選りすぐり、もし詩に曲がついてない場合には
自分で作曲もした。
1985年頃からパリ、ブローニュの森にある
ジャルダンダクリマタシオンの劇場のディレクターとなり
バレリーナのエテリィ・パガヴァを人生の新しいパートナーに
迎かえて15年間世界各国と音楽、舞踊で文化交流を行い
彼自身パリでのコンサートを始めアメリカ、カナダに
歌いに行っている。その間このテアトルデユジャルダンでは
定期的にドゥエの歌を聞く事が出来た。
僕はパリに住んで2年目にドぅエの事務所があったヌウーイ市の
アパートに2年間住んだ。
白い花が咲くマロニエの木があった中庭に面していた。
事務所の秘書は独身のおばあちゃん、マドモワゼル レジャン 
初めて会った時礼儀から<ボンジュール マダム!>と言ったら
<ノンノン!!マダムではなくてマドモワゼルです!>と
直された。その当時もう70歳にはなってられただろう。
心の温かい几帳面な今はあまりフランスでは見かけなくなった
人の一人である。
今の大統領サルコジーが若くて
パリのお隣ヌーイ市の市長だった時代である。
ドゥエには引っ越しの時には保証人になってもらい、
滞在許可書の取得には保護者になってもらった。
テレビもラジオにも一緒に出て2年間毎日テアトルジャルダンで
歌えた事も大きな経験になり懐かしい想い出でとなった。
ドゥエの紹介で詩的シャンソンのジャンバスカと知り合い
彼の紹介でレオフェレのピアニストだった盲目の
ポール・カスタニエと知り合いフランス中を公演した。
糸紡ぎが取り持ってくれた縁はここには書ききれない。
数年前ある人に頼まれて糸紡ぎに日本語をつけた。
それ以来僕も日本語を交えてこの歌を歌っている。
2003年1月にドゥエから年賀状と一緒に新しくフランスで
発売されたCD2枚が届いた。
<ワサブロー、2003年が君にとって良き継続の年で
ありますように!これからも良い歌を歌って世界を旅して
家族と共に幸せな年であります様に!>
と添えてあった。いままで彼のレコードは一枚もCDには
なっていなかったので新しいCDの発売が嬉しかった。
しばらく会えなかったので元気な様子も嬉しかった。
もちろん新しい録音ではなく以前のLPからのアンソロジーだが
それでもドゥエの歌を聞いてもらえる事は嬉しい。
すぐにお礼の葉書を出した。
それから半年経った7月ジャック・ドゥエは亡くなった。
半年ガンと闘ってパリの病院でひっそりと逝った。
83歳だった。
日本に帰っていた時で葬式に行けなかった事が悔やまれて
仕方がない。
僕が初めて聴いてから30年たった今、日本でもドゥエのCDが
買える時代になった。
僕もITUNEストアーで買ってIPOD に入れて聴いている。
こうしてジャック・ドゥエの想い出を書いているうちに
彼の歌を集めてコンサートがしたくなった。
ドゥエはきっと喜んでくれるだろう。
日本の皆さんに彼が歌った美しい歌を
お裾分け出来るかも知れない。
夏までにはきっと。

Posted by : ワサブロー | 日記 | 02:54 | comments(0) | -
京都とパリの狭間で
数ヶ月留守にしていたパリに戻った。
長年パリに住んで初めての長い日本滞在だった。
今までは1ヶ月から永くて1ヵ月半の滞在だったが
今回は初めて3ヶ月連続で日本にいた。
1ヶ月の滞在でも3ヶ月でも日本に腰を
おろしてしまえば同じように、何時もなんだか
ずーっと日本に住んでいてパリになんか一度も
住んだことがないような錯覚に陥ってしまう。
要するにフランスの30年は夢か幻のごとく、
無かったかのように感じてしまう。
不思議な事だがパリにいてその逆、
つまり京都になどに住んだことがないという
感覚を持った事は一度も無い。
すべてフランスあるいは外国に住んでいる日本人が
このような感覚を持っているのかは知らないが
何人かのフランスにいる日本人の知り合いは
同じような事を言っている。
それだけ生まれ育った場所が人間形成に大きな
そして決定的な要素となっていることがわかるが
それにしても今や僕にとっては京都で生きた時間
よりも永く生きているパリでの生活がひとたび
生まれ故郷に身を置いただけで
夢幻のようにはらはらと存在の縁取りが消えていき
実体のない記憶の淵に漂っている前世の出来事の
ように感じてしまうのはなんとも妙なものである。
同じようにパリにいて精神的にかなりの疲労が
続いた時に必ずと言っていいほど同じ夢を見る。
夢の舞台は京都の実家で僕が10歳のころ。
100坪あった大きな明治時代の今の言葉でいう町家で
母、祖母を初めその当時この家にいたおばちゃん、
淑ちゃんなどが忙しく家の中を、裏庭に通じる
はしりもと(流し)の前を行き来している。
時折父の仕事場の職人さんや近くの歌舞練場からの
帰りに寄って行く芸妓はんの姿も見える。
そして自分はというとこれも不思議なことに
現在の自分である。
そこにいる人達は当時の姿で僕は40年経った今の歳で
そこにいる。
その場では、まるで透明人間がある場所に現れたように
周りの人達は僕の存在には一切気が付かずその日を
普通に生きているがごとく動き、笑い、話している。
僕はその真ん中にあるいは立ち、あるいは座って周りで
動く人達を眺めている。ただ時折10歳くらいの少年が
目の前をすーと歩いて行くのが見えることがある。
いつも背を向けているので顔はわからないが着ている
絣の着物でこれがその当時の僕であることに間違いは無い。
夢の中の多くは朝の時間で晴れた春の日、
天窓から入ってくる陽の光が気持ちよく、温かく、
幸せな空気が家中に漂っている。
その光景は僕の目の前で無声映画のように一切の声も
音も聞こえずに流れていく。
そして僕はその温かさに包まれてただ無性に気持ちよく
幸せを感じている。
そして目が覚める。
いつもきまって目が覚めると数秒間、結構長い時間
10秒から15秒間は、目の前に生家の庭に面した
僕の寝ていた部屋の雪見障子があり、
横には祖母のたんす、上には網代編みの天井が見える。
パリの寝室のベットに寝ているにもかかわらず、である。
まさしく現実と夢の狭間であって、自分はパリの寝室で
寝ていることは意識としてきっちりあるのに
目の前に見えているものは40年前の生家の部屋の
調度品であり、建具でありその上にそこにはその部屋の
匂いすら漂っている。
こんな不思議な体験を何度もして
いまだにそれは続いている。
ユングの言う深層心理に深くかかわっている状態だと
思うがいろいろ僕なりに分析をした結果
自分の魂が安らぎを求めて行き着く先がこの夢の場所であり、
時間であることだと思いついた。
思えば小さいころから何処に出かけても
磁石に引き寄せられるごとく家に帰りたくなった。
それ以外は<落ちつかない>のである。
このような人間がどうして又30年もパリに住んでいられたのか
自分自身説明に困ってしまう。
僕の身体の何処かでパリと京都は僕の魂が
前世に生まれた時から(もし前世と言うものがあるのなら)
きっと繋がっているのだろう。
雪の京都を発ってパリに帰ってみると暖かい。
しばらくは京都を忘れてパリ時間を過ごすことになる。
そして京都の磁石が僕を捜す頃、初夏の日本に
コンサートとセカンドアルバムの録音のために
帰国する事になっている。
それまでは夢の狭間でパリと京都を何度生きるのだろう。
Posted by : ワサブロー | 日記 | 00:50 | comments(2) | -