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    <title>ワサブローのブログ</title>
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    <title>パリの家と京都の家</title>
    <description>僕が住んでいる京都とパリの界隈の話をしてみたい。
パリでは１０区という街に住んでいる。
北駅、東駅から近くまたオペラ座にも近い。
１９世紀末にはブルジョワが沢山住んでいた街である。
マルセル・プルーストが書いた失われた時を求めてには
この界隈の様子が描...</description>
<content:encoded><![CDATA[
僕が住んでいる京都とパリの界隈の話をしてみたい。<br />
パリでは１０区という街に住んでいる。<br />
北駅、東駅から近くまたオペラ座にも近い。<br />
１９世紀末にはブルジョワが沢山住んでいた街である。<br />
マルセル・プルーストが書いた失われた時を求めてには<br />
この界隈の様子が描かれている。<br />
近くのイタリアン大通りには評判のレストランやカフェが<br />
建ち並びそれらの店の前には当時の自家用車であった<br />
御者付きの馬車がところ狭しと駐車していた。<br />
<img src="images/wasa1.jpg" alt="" class="pict" /><br />
僕のアパートの数件南の建物には画家のコローが住み<br />
そのアトリエも近くにあった。<br />
フォーレの美しいメロディ＜ゆりかご＞に詩を付けている<br />
詩人のシュリー・プリュドムも<br />
このフォブールポワソニエール通りに住んでいた。<br />
ポワソニエール通りの歴史は古い。<br />
パリの大方の通りは京都の通りと同じ様に古くからあり時折<br />
名前を変えながら今に至っている。<br />
このフォブールポワソニエール通りのポワソニエールとは<br />
poisson ポワッソンすなわち魚を売る人という意味で<br />
魚売り通りという事になる。<br />
（ここでは男性名詞ではなくて女性名詞になっているが<br />
必ずしも女性だけがこの時代魚屋だった訳ではない）<br />
でも頭にフォブールが付いているので洛外という意味で<br />
魚街道外通りとでも訳しておこうか。<br />
中世には北の海で採れた魚は陸の交通を使って<br />
パリの中央市場へ運ばれた。<br />
いつも同じ路を通って来たので何時の頃からか<br />
その道は魚街道と呼ばれ<br />
馬車がパリへ入って通る路も決まっていた。<br />
福井県から京都に魚、とくにサバなどが運ばれた路が<br />
サバ街道として今も残っているのに似ていて面白い。<br />
１７世紀になりフランソワ１世と王妃カトリーヌド<br />
メデイシスが作った通称黄色の堀（fosse jaune)と<br />
呼ばれる、パリの街を外敵から守る砦のような<br />
石の城壁のが作られた際その内側に９区の延長で<br />
２区にあるポワソニエ通りは入ってしまい<br />
その外にある路の続きはグランブールヴァール大通りが<br />
取って代わってしまった。<br />
この黄色の堀の西の一部がオランジュリー美術館の改築の際<br />
地下から姿を現し改築の期間が大幅に遅れた事は<br />
きっと皆さんの記憶に新しい。<br />
この事も豊臣秀吉がお土居を作って京の街を洛中、洛外と<br />
した事にも似ている。<br />
その後１９世紀になるとパリのオスマン都市大改革の際<br />
ラファイエット大通りに道幅を取られたり地理的には<br />
フォブールサンドニに属しているにもかかわらず魚街道の名は<br />
残され、外というフォブールを付けて１０区の魚街道は<br />
フォブールポワソニエール通りとして生き残った。<br />
今ではモンマルトル街とシャペル街を区切ってこの通りは<br />
北に伸び１８区では名前の＜外周＞は外されてそのまま<br />
魚屋通りとなっている。<br />
現在フォブールポワソニエール通りは１０区と９区とを隔てる<br />
位置にある。<br />
この通りに寄り添って通っているパラディ通り（天国通り）は<br />
通称陶器通りあるいはクリスタル通りとも呼ばれ<br />
すぐ傍にある東駅に到着するロレーヌ地方からの<br />
産物の一つである陶器やクリスタルの店が多くある。<br />
２、３年前までは３０番地にバカラの本社があった。<br />
１８番地に残っているショワズイールロワ焼きの本社の建物は<br />
現在では国の歴史的建造物に指定されていて建物の壁などに<br />
素晴らしい陶器をあしらったその当時の展示会場や<br />
手すり付きの美しい階段を通りからでも垣間みる事が出来る。<br />
フォブールポワソニエ通りをはさんでパラディ通り（天国通り）<br />
の向かいにはブルー通りが伸びているがこの通りは１９世紀には<br />
アンフェール通りすなわち地獄通りと呼ばれていた。<br />
なぜ現在ではブルー通りに改名されたのか<br />
また別の機会にパリの通り名の歴史でもたどってみたい。<br />
ちなみにフォブールとは１７世紀の旧市街が隔てる市街地に<br />
入らない界隈をこのように呼んだ。<br />
現在のフオブールサントノーレ、フォブールサンドニ、<br />
サンミシェル、サンマルタンなど多くのフォブールが<br />
ポルトドサンドニ（サンドニ入り口）ポルトドルレアン<br />
（オルレアン入り口）などと共に残っている。<br />
なんだか解説が長くなってしまったが要するに<br />
僕の今住んでいるパリの１０区にある街は昔はちょっとした<br />
名士が多く住んでいた。<br />
でも何度も様子を変えながら今では本当に下町に<br />
なってしまった。<br />
パリは住む人がその街の様子を変え評判を替え<br />
人種すら（国のという意味ではなく）変えてしまう。<br />
古くはゴッホやルノワール、ロートレックや<br />
イヴェット・ギルベールなどの芸術家がモンマルトルを<br />
華やかな街にした。<br />
その後ピカソやモディリアーニ、パスキン、フジタら<br />
エコールドパリのアーチストと共にモンパルナスに<br />
スポットが当たり戦後すぐにはジュリエット・グレコ、<br />
ボリス・ヴィアン、屋根の上の牡牛のマリアンヌ・オズワルド、<br />
サルトル、ボーボワールがサンジェルマン・デプレを<br />
時代の先端に置いた様に今ではポワソニエール通りは少し時代に<br />
取り残され時代の寵児はサンマルタン運河沿いやついこの間まで<br />
超下町だった２０区に集まり初めている。<br />
オペラ座まで歩いて１５分の都心だが<br />
僕がその前に２０年間住んだ、今はとびきりの若者の街に<br />
なっているレアール（中央市場）界隈とは歩いている人の服装が<br />
違っているのもパリの面白いところである。<br />
そのパリの下町にある１８世紀、<br />
築２００年のアパートに僕は住んでる。<br />
<img src="images/wasa5.jpg" alt="" class="pict" /><br />
そして京都は、これまた４００年前までは京の街の<br />
中心地であった上京区に僕の住まいがある。<br />
話はパリよりももっと古くなる。<br />
７９４年桓武天皇は長岡から都を京都に移し平安京を建てた。<br />
現在の今出川通りと丸太町通の間にある一条通が<br />
北限の一条大路、南限は現在のJR京都駅のもう少し南、<br />
九条通り、東限であった東京極大路は現在の寺町通り<br />
西限は阪急京都線の西京極駅と今の京都市街比べると<br />
ぐっと狭くて現在京都市内にある北区、<br />
左京区、右京区、西京区、南区の一部、山科区、東山区、<br />
伏見区などは市外であった。<br />
その中でも天皇の在所大内裏は、<br />
北は一条通、南は二条通、<br />
西は西大路通東はほぼ大宮通にまたがった<br />
大きな宮城であった。<br />
僕はこの位置よりも少し北にずれたところにある<br />
北野天満宮の傍で生まれ育った。<br />
２年前に京都に家を探した折偶然に見つけたのが今の住まいで<br />
この平安京の大内裏の図に則ると丁度逹智門のすぐ傍<br />
大蔵省があった場所にある。<br />
<img src="images/wasa2.gif" alt="" class="pict" /><br />
<br />
通り名の裏門通は近くにある浄福寺の裏門に通じる通り<br />
ということらしい。<br />
家の前で衣冠束帯を付けた男やきらびやかな十二単、<br />
あるいは小袿を着た女房たちが牛車に乗り降りしていたと<br />
想像すると楽しくてしようがない。<br />
きっと紫式部も光源氏も通っていたに違いない。<br />
何度かの火災に合い1227年の大火で大極殿も内裏も<br />
焼け落ちやがて再建されないまま天皇の住まいは今の御所に<br />
替わってこの地は内野と呼ばれる荒れ地になってしまった。<br />
その後１５８６年、天下を取った豊臣秀吉はこの大内裏跡地を<br />
選んで邸宅と政庁を兼ねた聚楽第を建てた。<br />
豪華絢爛な宮殿で何でも金ぴか好みの秀吉の趣味が<br />
すべてに生かされていてさぞ今の時代では万博の<br />
パビリヨンの様な周りの風景から飛び出したものだろうと<br />
想像している。<br />
<img src="images/wasa3.jpg" alt="" class="pict" /><br />
聚楽第の全貌は屏風絵にしか見る事が出来ないが<br />
聚楽第の遺構とされる建物がいくつか残っている。<br />
下の写真は大徳寺の別名日暮しの門と呼ばれて<br />
国宝に指定されている唐門。今年も１週間だけ拝観があった。<br />
<img src="images/daitokuji-5.jpg" width="360" height="249" alt="" class="pict" /><br />
近年の発掘で金箔をあしらった瓦などが多くこの地に<br />
出土していることでおおよその想像はつく。<br />
既に大阪城に住んでいた秀吉にとっては関白になった今<br />
朝廷のある京都に住む事がきっと天下人の明かし<br />
だったのだろう。<br />
僕の家はこの聚楽第の本丸の北と西の角あたりに当たっている。<br />
<img src="images/wasa4.gif" alt="" class="pict" /><br />
平安京から６００年のちこの地は再び政治の中心地になった。<br />
千利休を近くに住まわせ北野天満宮で大茶会を催したり<br />
天皇の行幸も行い天正遣欧少年使節の謁見も<br />
ここで行われている。<br />
１５９５年次男秀頼が生まれるとわが子可愛さに<br />
関白職まで譲った甥の秀次に謀反の疑いをかけて高野山で<br />
切腹させ妻子数十名を三条河原で処刑させたあと<br />
聚楽第を壊滅して秀次の痕跡を地上からすべて<br />
消し去ってしまった。<br />
幻の様に現れた聚楽第はまた夢の様に消えてなくなり<br />
この地も政治の中心から織物の街西陣として<br />
栄えて行く事になる。<br />
僕の少年時代には千本今出川から平安京の大極殿のあった<br />
千本丸太町までが機織りの織り子さんたちで<br />
常に賑わっていた。<br />
江戸時代にそのスタイルが確立され全国へと広がった<br />
むしこ窓をあしらった中二階のあるベンガラ格子の京町家。<br />
この家がまだいくつも残っている上京の街中に<br />
大正末期〜昭和初期にかけて作られた家を借りて<br />
日本にいる時僕は住んでいる。<br />
坪庭のある古い家であるが気に入っている。<br />
<img src="images/wasa6.jpg" alt="" class="pict" /><br />
ポワソニエール大通りに馬車が行き交ったプルーストの時代<br />
京都西陣から職人の佐倉常七、井上伊兵衛、吉田忠七の<br />
３人がフランスのリヨンへジャガード織の技術を<br />
習得するために出かけていった。<br />
パリにも立ち寄った３人はきっとオペラ座の界隈を散策して<br />
ポワソニエール大通りのキャフェでコーヒを飲みながら京都を<br />
想った事だろう。<br />
パリ最古の建物はシャトレ広場の傍に建っている<br />
サンジャックの塔で１２世紀の建造物。<br />
京都最古の建物は醍醐寺の五重塔、平安時代天暦５年、<br />
西暦９５１年に建てられたものである。<br />
京都とパリは僕の中で繋がっている。<br />
同じ様に長い歴史を生き延びたこの二つの都の二つの街に<br />
偶然僕がいるのが不思議でならない。<br />
パリの市街地の建物と通りはほとんど１００年以上<br />
変わっていない。<br />
京都は古い家が壊されマンションになり１００円パークになり<br />
国籍不名の醜い家が明治時代の美しい家を殺して<br />
のさばっている。<br />
こと。。以外二つの街にはセーヌ河と鴨川があり<br />
いつも悠久の時が流れている。<br />
<br />

]]></content:encoded>
    <dc:subject>日記</dc:subject>
    <dc:date>2008-11-12T01:19:13+09:00</dc:date>
    <dc:creator>ワサブロー</dc:creator>
    <dc:rights>ワサブロー</dc:rights>
  </item>

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    <title>リーガロイヤルホテル京都のディナーショーとフランソワ</title>
    <description>このブログでも書いた事があるフランソワ・ロゼが
久し振りに日本に来た。
来日は３度目、８年ぶりである。
８年前僕が東京で歌った時アコーディオン奏者のパトリックと
一緒に来てくれた。
フランソワは詩を書き曲を作り自分で歌も歌う。
僕は彼の歌が好きでレパー...</description>
<content:encoded><![CDATA[
このブログでも書いた事があるフランソワ・ロゼが<br />
久し振りに日本に来た。<br />
来日は３度目、８年ぶりである。<br />
８年前僕が東京で歌った時アコーディオン奏者のパトリックと<br />
一緒に来てくれた。<br />
フランソワは詩を書き曲を作り自分で歌も歌う。<br />
僕は彼の歌が好きでレパートリーの中にいくつも入っている。<br />
彼の歌の詩はカレイドスコープでのぞいた絵画のようで<br />
多くの場合言葉の意味が幾重もの層になって判じ絵を<br />
見ている様に面白いものがいくつもある。<br />
走馬灯が廻る様に歌は次々と場面を変えながら進んでいく。<br />
言葉遊び、比喩、言葉のポリホニーがふんだんにある。<br />
以前はフランスの詩の伝統に則って韻をふんだんに使っていたが<br />
このごろは脚韻をほとんど使わずにもっと言葉を自由に使う事に<br />
したと言っている。<br />
９月８日のリーガロイヤルホテル京都でのディナーショーは<br />
今年で１７年目を迎えた。<br />
同じ歌手を１７年もの長い間毎年それも遠くフランスから<br />
招聘して下さる事は非常に希有なことだと思っている。<br />
大変有り難いことで何よりもまずこの<br />
リーガロイヤルホテル京都の皆様に心より<br />
お礼を言わせて頂きたい。<br />
それと同時に長い間毎年お越し頂いているお客様にも<br />
心よりお礼を言いたい。<br />
今年も盛況のうちに終わる事が出来、<br />
感謝の気持ちで一杯です。<br />
この８日のショーで僕を応援してくれるために今年８年ぶりに<br />
フランソワが京都に来た。<br />
ディナーショーの中で彼は最新作の自分の持ち歌を一曲歌い<br />
その他に８年前に僕のために書いてくれた＜プチルフラン＞と<br />
古いシャンソン＜河は呼んでいる＞を二人で歌った。<br />
彼の来日は急に決まったためにプログラムにも何処にも<br />
フランソワの名前は無く、当日のお客さんはプチルフランの<br />
２コーラス目で彼が歌いながら客席に入って来て<br />
初めてわかった。<br />
予想以上のハプニングだったみたいで会場は大いに湧いた。<br />
僕は久し振りの彼とのステージが嬉しくて、楽しかった。<br />
フランスにはディナーショーと言うものはない。<br />
ないというと嘘になるが特にホテルのディナーショーなどは<br />
存在したとしてもプラーベートな催しなので、<br />
例えば会社の何十周年の記念パーティとかファッションショー<br />
のアトラクションとか、いわゆる一般の人が<br />
お金を払って行くものではない。<br />
ライブハウスの様なものは昔から存在するのでそこで<br />
食べながら聞くと言う事はある。<br />
フランスのステージで育った僕はディナーショーと言うものを<br />
日本で経験するまで全く知らなかった。<br />
特に僕とって難しいのは話をしなければならないこと。<br />
コミック出身ではない僕には大変な仕事である。<br />
フランスの歌手たちはステージで噺家の様には<br />
話さない。<br />
歌手は歌でステージを作り漫談の人間は話術で舞台を構成する。<br />
日本では話術に長けている歌い手が結局は残ると<br />
言われた事がある。<br />
僕は歌手がステージ上で長話をするのは好きではないので<br />
最初はとても抵抗があったが郷に入れば郷に従えとはよく<br />
言ったものでこのごろは話の技量も才能もないので<br />
まだストレスにはなるが抵抗は薄れて来た。<br />
ともあれ特にデイナーショーでは楽しい話を期待して来られる<br />
お客さんも少なくはないという事実の前にただでも<br />
非常に上がり性な僕は息が詰まる程胸がドキドキして頭が<br />
真っ白になる。<br />
歌詞を忘れたらどうしようと同時にうまく話せなかったらという<br />
フランスでは思ってもなかった恐怖に毎回襲われる事になる。<br />
その上にディナーショーはステージのコンサートとは全く異質の<br />
もので大いに雰囲気というものが重要視されている。<br />
お客さんはじっくり歌を聞くというよりもいつもは身近で<br />
見られないスターを身近に見て歌を聞くという体験をして、<br />
同時にその場はファッションサロンであり社交場でもあるように<br />
見受けられる。<br />
ということは僕の様なスターでない歌い手はどのようにすれば<br />
いいのか、いつも戸惑ってしまい、<br />
結局納得出来る様な妙案を見つけ出せないままに<br />
１７年が経ってしまった。<br />
今年も華やかなお客さまの陰に隠れてしまわないようにと<br />
祈りながら舞台に出た。<br />
幸いショーの間、頭は真っ白にならずお客さんの笑い声も多く<br />
無論多くの拍手も頂き、<br />
無事１７年目のリーガロイヤルホテル京都での<br />
ディナーショーの幕は降りた。<br />
今しがたフランソワからパリには無事着いた、日本の<br />
皆様にくれぐれも宜しくというメールが届いた。<br />
お越し頂いた皆様本当にありがとうございます！
]]></content:encoded>
    <dc:subject>日記</dc:subject>
    <dc:date>2008-09-15T01:28:12+09:00</dc:date>
    <dc:creator>ワサブロー</dc:creator>
    <dc:rights>ワサブロー</dc:rights>
  </item>

  <item rdf:about="http://wasaburo.officekuroko.com/?eid=828311">
    <link>http://wasaburo.officekuroko.com/?eid=828311</link>
    <title>ヴァンテアン号の船上と京都のアーズローカスとリーガロイヤル京都のデナーショー</title>
    <description>初めて船上で歌った。
船上と言っても勿論デッキではなくて
船の中のホールの様な場所なので中にいて
窓から外の眺めを見ない限り
船に乗ってるという感覚はほとんどない。
特に食事をしながらおしゃべりに興じていると
町のレストランにいるのとそんなに変わらない...</description>
<content:encoded><![CDATA[
初めて船上で歌った。<br />
船上と言っても勿論デッキではなくて<br />
船の中のホールの様な場所なので中にいて<br />
窓から外の眺めを見ない限り<br />
船に乗ってるという感覚はほとんどない。<br />
特に食事をしながらおしゃべりに興じていると<br />
町のレストランにいるのとそんなに変わらないだろうが<br />
僕は昼夜二回公演のため<br />
ほとんど昼前から乗り込んで１日船上で過ごしていたので<br />
やはり揺れも確実に感じ、初めてパリからロンドンへ船で<br />
行った時の事を思い出して少し心配になったりした。<br />
１９８０年初めてのロンドン行きの時は大いに船が揺れて<br />
備え付けの袋を手に握りしめていた。<br />
ロンドンまでなんとか問題なく着いたがその時の気分が<br />
強く記憶に残っているので船は僕にとって<br />
少し鬼門になっている。<br />
暑い中大勢のお客様が来て下さった。<br />
ありがとうございます。<br />
昼の部は景色を見るという都合上室内が暗くならずに<br />
通常のコンサートの雰囲気は出しづらく<br />
歌に集中して頂くのが難しかったことと思っていたが<br />
それでも楽しんでお帰りいただいたようで<br />
よかったと安堵している。<br />
夜はまるでマンハッタンを思い出させる様な<br />
イリュミネーションで飾られた橋など<br />
美しい夜景が目の前に広がっていた。<br />
クルーズの数日前に京都でも歌った。<br />
アーズローカスという僕が好きな音楽空間が<br />
京都の北にある。<br />
京都で繊維関係の会社を経営されているご夫妻が<br />
大人の小学校と題して作られたビルの中では<br />
よう様な教室があり会員になるとそれぞれの趣向に応じて<br />
語学、音楽、ダンス、陶芸などいろいろなもの<br />
を学べる。プールもあるその５階建てのビルの<br />
一番最上階に音楽ホール；アーズローカスがある。<br />
少し楕円形で天井の真ん中には部屋の永さだけ<br />
ガラスをはめた明り採りがあって天気のいい昼間は<br />
自然光が優しく降り注いで本当に気持ちがいい。<br />
スタインウエイが一台おかれていて壁には質のいい<br />
反響版が付けられている。<br />
ここで僕は今年の５月から２ヶ月に一度<br />
＜こんなシャンソン知ったはりますか？＞<br />
と題したミニコンサートを行っている。<br />
行っていると書いたが５月の末に初めたばかりで<br />
今月の２日に二回目を終えた。<br />
いまから５年程前に僕はこのホールを知り是非ここで<br />
普段コンサートやディナーショウでは歌えない<br />
地味だが美しい、あまり日本では知られていない歌を聞いて<br />
頂くミニライブをピアノと二人だけでしたいと思った。<br />
このアーズローカスを紹介してくれた京都在住の<br />
ピアニスト作曲家の藤林由里さんと準備をして<br />
２００２年から２００４年にかけて２度ばかり<br />
行いその後うまくスケジュールがあわなくなって<br />
中断したままになっていた。<br />
２年前、日本に定期的にそれも長い期間で帰ってくる<br />
と決まった時にこのアーズローカスでのコンサートを<br />
是非再開したいと思いやっと念願がかなって<br />
今年の５月に再開した。<br />
ライブは１日２回公演で午後の２時と７時。<br />
歌詞の内容に触れたり歌が作られたエピソードを話したり<br />
同じ歌を解釈を変えて２度歌ったり普段コンサートでは<br />
出来ない試みをする事にしている。<br />
今のところ全くと言って良い程告知が出来ないので<br />
知る人ぞ知るのような形での開催しか出来ていないが<br />
今後方法を考えて出来るだけ多くの方、京都以外<br />
に遠くからも来て頂ける様になれば嬉しいと思っている。<br />
８月２日に行ったものも東京などでの大きなライブが<br />
頭を占領していて気がついたのが２週間前。<br />
一晩かかって手書きのDMを作り発送したのはわずか<br />
公演の１０日前だった。<br />
先日の演題は＜ジャック・ドウーエ＞という歌手のこと。<br />
このブログでも書いたジャック・ドウーエのことを話し、<br />
彼のレパートリーの中からテッサの歌、<br />
牧場に咲く犬サフランの花、宮殿の階段で、<br />
枯葉などを歌った。<br />
僕にとっては懐かしさで満たされた時間であり<br />
聞きに来て下さった方には珍しい歌との出会い<br />
を喜んで頂いた時間になった。<br />
次回は１０月を予定しているがそれまでに９月９日の<br />
リーガロイヤルホテル京都での１７回目のデイナーショー<br />
を成功させなくてはならない大役が待っている。<br />
ずっとフランスにいてその上地味な活動をしている<br />
僕をリーガロイヤルホテル京都は<br />
毎年京都に招聘して支援を続けて下さっている。<br />
１７年もの長い間毎年必ず来て下さるお客さんも<br />
おられる。<br />
今年もぜひ春秋の間がお客さんであふれる一夜にしたいと<br />
願っている。<br />
今年は日本でもなじみの深い、小さな花、ピレの子供達、<br />
ラストダンスなど１９６０年代のフランスの<br />
ヒット曲を中心に昨年から歌い始めた日本の詩人の<br />
歌を交えて歌いたいと思っている。<br />
何卒万障お繰り合わせの上是非ともお越し願いたい。<br />
http://www.rihga-kyoto.co.jp/event/wasaburo/index.html<br />
今年のミュージシャン：鈴木厚志（ピアノ）、<br />
坂上領（フルート）ウエキ弦太（ギター）、<br />
服部正美（ドラム・パーッカッション）
]]></content:encoded>
    <dc:subject>日記</dc:subject>
    <dc:date>2008-08-11T01:25:21+09:00</dc:date>
    <dc:creator>ワサブロー</dc:creator>
    <dc:rights>ワサブロー</dc:rights>
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    <title>街頭で歌いました</title>
    <description>昨日野外特設会場というコンサートホール以外の場所で
初めて歌った。
今年は日仏友好１５０周年でその記念の催しが日本の各地で
開催されている。
そのうちの一つが東京八重洲駅で１週間、毎日色々な
フランスに関係のある方が
地下街に作られたステージでトークシ...</description>
<content:encoded><![CDATA[
昨日野外特設会場というコンサートホール以外の場所で<br />
初めて歌った。<br />
今年は日仏友好１５０周年でその記念の催しが日本の各地で<br />
開催されている。<br />
そのうちの一つが東京八重洲駅で１週間、毎日色々な<br />
フランスに関係のある方が<br />
地下街に作られたステージでトークショーなり<br />
ミニライブなりをするという事になっている。<br />
出演されている方々すべて僕以外日本では<br />
名前の知られている方のようだが僕はどなたも存じない。<br />
まあご一緒するわけでもないので存じなくても<br />
支障はなかったが、時々となり合わせに座っていて顔も名前も<br />
知らなくて大変失礼をしてしまった事もいままでに<br />
何度もあるので（そういうとき大方はなんで私の事を<br />
あんたは知らないの？ときまって怪訝な顔される）<br />
そんな時はせいぜい言葉少なめに振る舞う事にしている。<br />
今回は元日本放送のアナウンサーで今はフリーで<br />
仕事をしておられる小口絵里子さんが進行役で<br />
僕は初めてお目にかかった。<br />
気さくで奇麗な方で楽しくお話もさせて頂いた。<br />
大勢の人が行き交う雑踏の中で歌うのは全く初めてで<br />
始まるまでとても不安で<br />
生まれて初めてステージを踏む様な気分だった。<br />
昼間はトークショーと題されて小口さんの質問に答える様な<br />
形で色々お話をした。そのあと２曲ほどカラオケで歌った。<br />
僕はせいぜい数人が立ち止まり物見遊山に見て行かれるのだろう<br />
と思っていた。<br />
始まってステージに出てみると大勢の方がステージの前に<br />
置かれた椅子に座ってられた。<br />
さすがに昼間は食事に出て来られた人が大半の様なので<br />
長くはとどまらず去って行かれる方が目立った。<br />
僕は今まで歌いだしたら席を立つ人は誰もいない状態でしか<br />
歌った事が無い。<br />
ホールでもし途中に立って出てく人や立たなくても時計を<br />
見てられるのが偶然目に入るとその他の何百人の方がきっちり<br />
聞いて下さっていようともその時計の人に注意と目が<br />
いってしまい退屈なのだろうとその日のすべてが<br />
だめになった様に思ってしまう。<br />
この日はそんな事言っていたらだめですよ、<br />
用事があってみなさんこの地下街に来てられるんだから<br />
ちょっと聞いて帰るとか立つとか当然の事なので！<br />
とマネージャーから重々言い聞かされていたので座っている人が<br />
入れ替わる度に、つまらなくて立たれるのではない、<br />
用事があるので帰らはるんや、と自分自身に言い聞かせて<br />
昼間は何とか務まった。<br />
次が夕方６時から始まった。<br />
５曲歌う事が決まっていてピアニストの鈴木さんも来てくれた。<br />
昼間のトークショーは何とかクリヤー出来たが、<br />
夜は一応ミニという形容詞が付いていてもライブである。<br />
さあ！夜はどうなるか、控え室で折の中の熊（僕のイメージでは<br />
熊よりコヨーテという感じかもしれませんが）のように<br />
うろうろして全く落ちつきが無くなり、血の気も無くなり、<br />
自信もまったくなくなっていた。<br />
僕はどんなステージであれ困ったことにひどい上がり性で<br />
開演１５分前にはスタッフやミュージシャンに＜帰りたい＞とか<br />
＜今ここが火事になって中止になればいい＞などと不謹慎な事を<br />
一人でわめき散らしている。<br />
それでもステージに上がってしまえば一人になれる空間が<br />
待っているのがわかっているが今日は雑踏の中、街頭である、<br />
ティッシュペーパーを配っている人の様に皆、<br />
無視して行くんだろう、<br />
きっと、と憂鬱状態が１００パーセントに達した時に<br />
呼ばれてステージに上がった。<br />
まず驚いたのは昼間以上の人が椅子に座ってられた。<br />
立って見ておられる方も含めて優に１００名以上の方たちが<br />
見ておられた。<br />
もちろんその後ろには行き交う大勢の人たちが川の流れの様に<br />
交互に通り過ぎて行く。<br />
その通り過ぎて行く人たちを見ていると不思議に<br />
気分が落ち着いて来た。<br />
映画の１シーンの中にいる様な感じがしてその流れに身を<br />
ゆだねるような気分で歌い始めると歌は遠くにまで<br />
流れに乗って飛んで行った。<br />
茨木のり子さんの詩、わたしが一番きれいだったときを<br />
このような環境で歌えるとは思ってもいなかった。<br />
人の流れの中に柱に背を持たせてじっと聞き入って<br />
下さっている方がいた。<br />
その前を、その後ろを多くの人が通り過ぎて行くのに<br />
その人はじっと僕の方を見つめながらこの茨木さんの<br />
怒りの叙情詩の一語一句を体全体でつかむ様に聞いてられた。<br />
この夜、僕の歌はその大勢の人の流れの中に沈まずに<br />
水中花のごとく<br />
一気に咲いたような気がして嬉しかった。
]]></content:encoded>
    <dc:subject>日記</dc:subject>
    <dc:date>2008-07-03T11:24:48+09:00</dc:date>
    <dc:creator>ワサブロー</dc:creator>
    <dc:rights>ワサブロー</dc:rights>
  </item>

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    <link>http://wasaburo.officekuroko.com/?eid=760675</link>
    <title>２００８年スイートベージルSTB139</title>
    <description>今年の僕の日本公演は６月２５日の六本木スイートベージル、
STB139で始まる。
昨年のSTBライブはBSIで２回に分けて放映された。
この映像が編集されて夏にはDVDとして発売される予定に
なっている。このサイトでも発売日など詳細が報告されるので
是非ご覧になって...</description>
<content:encoded><![CDATA[
今年の僕の日本公演は６月２５日の六本木スイートベージル、<br />
STB139で始まる。<br />
昨年のSTBライブはBSIで２回に分けて放映された。<br />
この映像が編集されて夏にはDVDとして発売される予定に<br />
なっている。このサイトでも発売日など詳細が報告されるので<br />
是非ご覧になって頂きたい。<br />
それで今年のSTB139ライブだが６月２５日夜７時半開演。<br />
いつもの様にSTB139では６時から喫茶・食事が出来るので<br />
ご自由に早く来て頂き開演前の時間を楽しんで<br />
頂くことも出来る。<br />
僕はライブとコンサートの違いがよく解らずいまだに<br />
いい加減に使っている。<br />
勿論僕が日本にいた頃もライブという言葉はあったのだが<br />
あまり使った覚えがない。<br />
フランスでもこのごろは英語ばやりでこのライブliveはもう<br />
フランス語としてとくにCDやDVDのジャケットには<br />
普通に使われている。<br />
まあコンサートとライブの違いがどこにあるのかは<br />
また別の機会に考察する事にして今日は今年６月２５日に<br />
予定されている、スイートベージルSTB139のステージの<br />
事についてちょっと書いておこうと思う。<br />
今年は１９６０年代のフランスの歌を歌いたいと思った。<br />
６０年代は世界的に音楽が変わった時代でビートルズが現れ、<br />
それからウッドストックなどロックが主流になって行った。<br />
フランスの音楽の世界もこの時代を<br />
境に大きく変わった。<br />
それまでキャバレーと呼ばれる、歌を聞いて<br />
お酒を飲んだり食事が出来る場所で多くの歌手が<br />
デビューをした時代からテレビやラジオなどの放送メディアと<br />
レコードが中心になった。<br />
サンジェルマンデプレは衰退してジョニー・アリディや<br />
シルビー・バルタン、シェラ、アダモなどイエイエと<br />
呼ばれる若い歌手たちがメディアにのって現れた。<br />
僕はこの６０年代に初めてエディットピアフの声を<br />
ラジオで聞きイブ・モンタンやシャルル・トレネを<br />
知ったのもこの時代なので懐かしい。<br />
小学校の高学年の級友たちには全く関係のない世界で<br />
誰も興味すら示さなかった。<br />
僕がその当時聞いた多くの歌は６０年代の歌ではなくて<br />
きっと５０年代の歌だったのだろう。<br />
アダモやジョニー・アリディやシルビー・バルタンを<br />
聞いた覚えはない。でも記憶の奥にジャック・ブレルの<br />
行かないでやモンタンの小さな三つの音符、<br />
ブールビルではなかったがパタシュの歌う<br />
アイルランドのバラードなど６０年代にヒットした歌も<br />
聞いた覚えがある。それから十数年経って<br />
僕はフランスに発った。<br />
フランスでは６０年代の流行は終わりモンタンもトレネも<br />
歌わなくなっていた。<br />
それ以来６０年代は記憶の音楽ライブラリーに<br />
仕舞い込まれてほとんど忘れていた。<br />
たまに１曲，２曲６０年代の意識無しに<br />
歌ったことがある以外は。<br />
今回のSTBのプログラムを考えた時に初めてシャンソンに<br />
出会った６０年代の歌を歌ってみようと思った。<br />
探してみると面白い曲、楽しい曲、美しい曲が一杯あった。<br />
リズムも豊富で、今の感覚でも懐メロではなく十分に歌え，<br />
演奏出来る曲を選んだ。<br />
映画俳優のブールビルが歌ったアイルランドのバラードと<br />
フルーツサラダの歌。<br />
フルーツサラダはハワイの女の子の名前で恋人の男の子が<br />
小屋にかけてあるココナツの実やパイナップルは<br />
もう食べ飽きたわ、今僕が食べたいのは<br />
何かわかっているやろと話す、<br />
可愛くてちょっとエロチックな歌。<br />
アンリ・サルバドールのシラキューズは世界文化遺産にも<br />
指定されてるイタリア、シシリー島にある<br />
古代都市シラクサのこと。<br />
シラキューズに行きたい、ケルアンも見たい、<br />
大きな海鳥が羽を風になびかせて遊んでいる様子を見てみたい、<br />
富士山の頂上でベローナの恋人たちの夢を見たいと<br />
美しい光景が目の前に広がって流れていく。<br />
映画＜日曜はだめよ＞の中でメリナ・メリキュリが歌った<br />
ピレの子供達、同じくアンリ・コルピの映画＜かくも長き不在＞<br />
の中で歌われた三つの小さな音符、それに日本でもヒットした<br />
小さな花など僕にとっては初めてのちょっと毛色の変わった<br />
歌を選んでみた。それらの歌と一緒に今年も日本の詩人を<br />
歌う事にしている。<br />
もう何度か聞いて頂いている茨木のり子さんの<br />
＜私が一番きれいだったとき＞と<br />
今年は与謝野晶子の＜君死にたもうことなかれ＞この２曲は<br />
吉岡しげみの曲、それに加えて谷川俊太郎の詩に武満徹が<br />
曲をつけた＜死んだ男の残したものは＞、この３曲を選んだ。<br />
素晴らしく、偉大な詩であり３曲とも結構長い詩である。<br />
僕の力が及ぶか心配だ。<br />
その他毎回コミックバージョンを１曲、<br />
プログラムにいれている。<br />
去年は＜聞かせてよ愛の言葉＞のパロディを歌った。<br />
今年はまだ決まっていない。<br />
好きよ、メケメケなどしばらく歌っていないものもある。<br />
もしご希望があれば書いて頂きたい。<br />
新作が出来ればいいのだが、思う様にアイデアは出て来ない。<br />
アイデアも頂きたいと思っている。<br />
いずれにしても６月２５日は東京で皆様に会える、僕とって<br />
数少ない貴重な機会なのでいいコンサートにしたいと<br />
今から張り切っている。<br />
今回はサウンドが少し変わる。<br />
新しいステージを楽しみにぜひ大勢お越しいただきたい。
]]></content:encoded>
    <dc:subject>日記</dc:subject>
    <dc:date>2008-04-29T01:51:51+09:00</dc:date>
    <dc:creator>ワサブロー</dc:creator>
    <dc:rights>ワサブロー</dc:rights>
  </item>

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    <link>http://wasaburo.officekuroko.com/?eid=723056</link>
    <title>ジャック・ドゥエ〜jacques Douai</title>
    <description>僕が３０年間一度もレパートリーから外した事の無い
歌がある。
File la  laine  糸紡ぎ、
１９４９年にロベール・マルシーが詩と曲を書き、
創唱者のジャック・ドゥエを世に知らしめた歌でもある。　
この歌を僕は３３年前に京都で知った。
僕はその当時京都の北山...</description>
<content:encoded><![CDATA[
僕が３０年間一度もレパートリーから外した事の無い<br />
歌がある。<br />
File la  laine  糸紡ぎ、<br />
１９４９年にロベール・マルシーが詩と曲を書き、<br />
創唱者のジャック・ドゥエを世に知らしめた歌でもある。　<br />
この歌を僕は３３年前に京都で知った。<br />
僕はその当時京都の北山にあったルルソン・キ・ボア<br />
（l'ourson qui bois)という店でジャック・プレベールや<br />
ルイ・アラゴンが書いた詩的シャンソンや<br />
＜宮殿の階段で＞のような古いフランス民謡の様な歌を<br />
歌っていた。<br />
そこで一緒に歌っていたピエールというフランス人の<br />
レパートリーの中には僕の知らない歌が一杯あった。<br />
その中の一つが＜糸紡ぎ＞で、彼はギターを弾きながら<br />
毎晩この歌を歌った。ルフランの美しい、シンプルな<br />
この歌はジャック・ドゥエの歌だと教えられて驚いた。<br />
フランスでもあまり知る人はなく、まして日本では<br />
ほとんど誰も知らなかったジャック・ドゥエの名前を<br />
僕はHHKの番組で初めて日本に紹介された時に<br />
覚えて知っていた。<br />
この番組では冒頭、パリの街頭にマイクを持った人が<br />
通行人を呼び止めては＜ジャック・ドゥエ、ご存知ですか？＞と<br />
尋ねていた。１０人に６人は知らないと言い、<br />
２人は聞いた事があると言い、残りの２人だけが<br />
＜知っていますよ、歌手でしょ＞という結果だった。<br />
ジャック・ドゥエは戦後１９４７年にパリのポムという<br />
キャバレーでデビューした。<br />
その後クロード・リベットというキャバレーで誰も知らない、<br />
あるは遠く昔に忘れられた古い民謡や地方伝説の歌それに<br />
色んな詩人の書いた詩に曲が付けられた詩的シャンソンを<br />
歌って学生や知識人層の人気を得た。<br />
レパートリーのほとんどが地味であるが美しく、<br />
詩情にあふれ繊細な歌ばかりで<br />
アカデミー・シャルルクロ・レコード大賞を<br />
何度も受賞している。<br />
そのNHKの番組では６０年代になって夫人のテレーズ・パローと<br />
組織していたバレエ・ナショナル・ポピュレールのことも<br />
報道されていた。<br />
僕は今まで聞いていた他のシャンソンとは違ったドゥエの歌う<br />
美しい歌の数々に惹かれてこの歌手の事をもっと知りたく、<br />
もっと他の歌も聴きたくて早速レコードを探しに行った。<br />
197５年初めてのパリから帰って来た年の事である<br />
コロンビアから出ていた３枚のレコードを見つけた。<br />
いずれもシャンソン評論家芦原英了の解説付きでジャケットも<br />
美しく品のあるLPだった。<br />
<img src="images/sany2.jpg" width="320" height="239" alt="" class="pict" /><br />
<br />
今から思うとこれが日本で手に入ったジャック・ドゥエの<br />
すべてのレコードだった。<br />
その中にはジャン・ジュネの詩にエレーヌ・マルタンが<br />
曲をつけた死刑囚、劇作家のジャン・ジロドーの詩に<br />
モーリス・ジョベールの曲がついているテッサの歌、<br />
ルイ・アラゴンの詩にジョルジュ・ブラッサンスの曲で<br />
幸せな愛はない、カナダのフェリックス・ルクレールの<br />
山ウズラ、そのほか破れた網、青春は今、髪、<br />
ある日君を失ってなどの珠玉の歌と共にサンマロでのような<br />
民謡、それにジャック・プレベールの枯葉も収められていた。<br />
ジャック・ドゥエが枯葉の創唱者である事はフランス人でも<br />
知っている人はほとんどいない。<br />
＜日々の泡＞を書いたサンジェルマン・デプレの伝説の小説家、<br />
ボリス・ビアンは彼のライナーノートに枯葉は<br />
ジャック・ドゥエが初めて歌いそれを僕は聞いているが<br />
今となっては誰も知らないと書いている。<br />
後になってフランスで初めて実際に聞いたジャック・ドゥエの<br />
枯葉は誰のものよりも寂しくてまた同時に美しく僕にとっては<br />
今まで聞いた枯葉の中で一番素晴らしかった。<br />
今から思えば不思議な事にこの三枚のレコードには彼の１番の<br />
ヒット曲である、＜糸紡ぎ＞は入っていなかった。<br />
ピエールから教わった糸紡ぎがその後の僕の人生を<br />
大きく変える事になるとは思ってもいなかった。<br />
１９７９年に僕は再度フランスに渡った。パリで歌うために。<br />
誰も知り合いはいなかったのでパリに着くとすぐ<br />
日本で名前を知り、気に入っていた歌手すべてに<br />
手紙を書いた。<br />
歌を教えてほしい、歌う場所を教えてほしいと。<br />
今考えれば厚かましく思い出すと冷や汗ものだが、<br />
若かったその当時、僕は物怖じというものを知らなかった。<br />
その上それぞれの歌手の住所は知っているはずはなく<br />
すべてレコード会社気付で送っているのできっと<br />
手元に届いたものはわずか１、２通だった違いない。<br />
勿論誰からも返事は来ず強気の鼻っ柱が折れそうになったとき<br />
１通の手紙を受け取った。<br />
ジャック・ドゥエの秘書から届いたその手紙には<br />
＜ムシュウジャック・ドゥエは今カナダに公演中です。<br />
出発前にあなたの手紙は受け取っていて是非お会いしたいと<br />
申しております。帰りましたら連絡差し上げますのでしばらく<br />
待っていただけます様に宜しくお願い致します＞と<br />
書かれていた。<br />
それからしばらくしてドゥエから電話があって会う事が出来た。<br />
<img src="images/sany.jpg" width="320" height="204" alt="" class="pict" /><br />
<br />
かれは遠い日本の若者（僕は２０代で若かった）が<br />
自分の事を知り自分の歌、糸紡ぎをましてやフランス語で<br />
歌っている事にたいそう驚き、嬉しそうだった。<br />
彼に出した手紙と一緒に送っておいたカセット<br />
（カセットの時代だったんです）も気に入ったらしく翌月に<br />
予定されていた彼のTV番組に早速招待してくれた。<br />
このようにしてジャック・ドゥエとの縁が始った。<br />
その当時彼は奥さんでバレリーナーだったテレーズ・バローを<br />
病気でなくしたところで淋しい時期だったのだろう。<br />
ジャック・ドゥエはベルギー国境近くリルの下に位置する<br />
ドゥエ市（Douai)の出身でその街の名前をとり<br />
アーチストネームとした。<br />
ドゥエはパリ１５区に住んでいた。<br />
週末やバカンスになると古くから陶器の町として栄えたジアン<br />
（gien)の田舎の家に出かけた。<br />
パリから１５０km程離れたところにいつも<br />
６０年代のプジョーを飛ばして出かけて行った。<br />
ほんとうに＜飛ばして＞という表現が合う様な運転で<br />
常に１６０キロでビュンビュン走り前に車があると<br />
ライトで合図をしてそこのけそこのけ、<br />
という感じで走り抜けて行った。<br />
僕は連れてもらうといつも前の助手席に座らされたので<br />
結構怖い時もあり自然に自分の足で架空のブレーキを<br />
踏んでいた。<br />
静かで知的な感じの歌い方からは対照的な運転だった。<br />
ジアンの家には梨やリンゴ、花梨、サクンボが実る桜の木と<br />
一緒にクルミの木もあって大きな庭が広がり,秋になると<br />
壁には葉が紅葉して美しいツタが絡まっていた。<br />
内装も品良く趣味の良い調度品で囲まれていて、<br />
ドゥエはこの家が今の様に美しくなるには１０年、<br />
魂が隅々まで宿るのに１０年かかったと言っていた。<br />
暖炉のある居間で昼間によくギターを弾きながら僕の歌に<br />
伴奏をつけてくれて気がついたところは直してくれた。<br />
贅沢な個人レッスンを受けていたわけだが<br />
歌の事よりもとくにdiction（発音や朗読法）を直された。<br />
鉛筆を口と水平に歯で噛みその状態のまま歌う。<br />
口に鉛筆が入ったままそれでもきっちり聞き取れる様に<br />
発声しなければならない。これは結構難しい作業で<br />
舞台役者が必ずする発音のトレーニングでその後も僕はパリで<br />
オルトフォニスト（orthophoniste,発音矯正師）に<br />
何年か通った。<br />
ジャック・ドゥエの歌に対する姿勢はとても真摯で厳しく<br />
選曲に関してもまるでたわわに実ったさくらんぼの中から<br />
厳選された美しく甘い実を見つけ出す様に時間をかけて<br />
優れた歌を選りすぐり、もし詩に曲がついてない場合には<br />
自分で作曲もした。<br />
１９８５年頃からパリ、ブローニュの森にある<br />
ジャルダンダクリマタシオンの劇場のディレクターとなり<br />
バレリーナのエテリィ・パガヴァを人生の新しいパートナーに<br />
迎かえて１５年間世界各国と音楽、舞踊で文化交流を行い<br />
彼自身パリでのコンサートを始めアメリカ、カナダに<br />
歌いに行っている。その間このテアトルデユジャルダンでは<br />
定期的にドゥエの歌を聞く事が出来た。<br />
僕はパリに住んで２年目にドぅエの事務所があったヌウーイ市の<br />
アパートに２年間住んだ。<br />
白い花が咲くマロニエの木があった中庭に面していた。<br />
事務所の秘書は独身のおばあちゃん、マドモワゼル　レジャン　<br />
初めて会った時礼儀から＜ボンジュール　マダム！＞と言ったら<br />
＜ノンノン！！マダムではなくてマドモワゼルです！＞と<br />
直された。その当時もう７０歳にはなってられただろう。<br />
心の温かい几帳面な今はあまりフランスでは見かけなくなった<br />
人の一人である。<br />
今の大統領サルコジーが若くて<br />
パリのお隣ヌーイ市の市長だった時代である。<br />
ドゥエには引っ越しの時には保証人になってもらい、<br />
滞在許可書の取得には保護者になってもらった。<br />
テレビもラジオにも一緒に出て２年間毎日テアトルジャルダンで<br />
歌えた事も大きな経験になり懐かしい想い出でとなった。<br />
ドゥエの紹介で詩的シャンソンのジャンバスカと知り合い<br />
彼の紹介でレオフェレのピアニストだった盲目の<br />
ポール・カスタニエと知り合いフランス中を公演した。<br />
糸紡ぎが取り持ってくれた縁はここには書ききれない。<br />
数年前ある人に頼まれて糸紡ぎに日本語をつけた。<br />
それ以来僕も日本語を交えてこの歌を歌っている。<br />
２００３年１月にドゥエから年賀状と一緒に新しくフランスで<br />
発売されたCD２枚が届いた。<br />
＜ワサブロー、２００３年が君にとって良き継続の年で<br />
ありますように！これからも良い歌を歌って世界を旅して<br />
家族と共に幸せな年であります様に！＞<br />
と添えてあった。いままで彼のレコードは一枚もCDには<br />
なっていなかったので新しいCDの発売が嬉しかった。<br />
しばらく会えなかったので元気な様子も嬉しかった。<br />
もちろん新しい録音ではなく以前のLPからのアンソロジーだが<br />
それでもドゥエの歌を聞いてもらえる事は嬉しい。<br />
すぐにお礼の葉書を出した。<br />
それから半年経った７月ジャック・ドゥエは亡くなった。<br />
半年ガンと闘ってパリの病院でひっそりと逝った。<br />
８３歳だった。<br />
日本に帰っていた時で葬式に行けなかった事が悔やまれて<br />
仕方がない。<br />
僕が初めて聴いてから３０年たった今、日本でもドゥエのCDが<br />
買える時代になった。<br />
僕もITUNEストアーで買ってIPOD に入れて聴いている。<br />
こうしてジャック・ドゥエの想い出を書いているうちに<br />
彼の歌を集めてコンサートがしたくなった。<br />
ドゥエはきっと喜んでくれるだろう。<br />
日本の皆さんに彼が歌った美しい歌を<br />
お裾分け出来るかも知れない。<br />
夏までにはきっと。<br />
<img src="images/poster.jpg" width="250" height="335" alt="" class="pict" /><br />

]]></content:encoded>
    <dc:subject>日記</dc:subject>
    <dc:date>2008-03-19T02:54:57+09:00</dc:date>
    <dc:creator>ワサブロー</dc:creator>
    <dc:rights>ワサブロー</dc:rights>
  </item>

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    <link>http://wasaburo.officekuroko.com/?eid=707969</link>
    <title>京都とパリの狭間で</title>
    <description>数ヶ月留守にしていたパリに戻った。
長年パリに住んで初めての長い日本滞在だった。
今までは1ヶ月から永くて1ヵ月半の滞在だったが
今回は初めて3ヶ月連続で日本にいた。
1ヶ月の滞在でも3ヶ月でも日本に腰を
おろしてしまえば同じように、何時もなんだか
ずーっ...</description>
<content:encoded><![CDATA[
数ヶ月留守にしていたパリに戻った。<br />
長年パリに住んで初めての長い日本滞在だった。<br />
今までは1ヶ月から永くて1ヵ月半の滞在だったが<br />
今回は初めて3ヶ月連続で日本にいた。<br />
1ヶ月の滞在でも3ヶ月でも日本に腰を<br />
おろしてしまえば同じように、何時もなんだか<br />
ずーっと日本に住んでいてパリになんか一度も<br />
住んだことがないような錯覚に陥ってしまう。<br />
要するにフランスの30年は夢か幻のごとく、<br />
無かったかのように感じてしまう。<br />
不思議な事だがパリにいてその逆、<br />
つまり京都になどに住んだことがないという<br />
感覚を持った事は一度も無い。<br />
すべてフランスあるいは外国に住んでいる日本人が<br />
このような感覚を持っているのかは知らないが<br />
何人かのフランスにいる日本人の知り合いは<br />
同じような事を言っている。<br />
それだけ生まれ育った場所が人間形成に大きな<br />
そして決定的な要素となっていることがわかるが<br />
それにしても今や僕にとっては京都で生きた時間<br />
よりも永く生きているパリでの生活がひとたび<br />
生まれ故郷に身を置いただけで<br />
夢幻のようにはらはらと存在の縁取りが消えていき<br />
実体のない記憶の淵に漂っている前世の出来事の<br />
ように感じてしまうのはなんとも妙なものである。<br />
同じようにパリにいて精神的にかなりの疲労が<br />
続いた時に必ずと言っていいほど同じ夢を見る。<br />
夢の舞台は京都の実家で僕が10歳のころ。<br />
100坪あった大きな明治時代の今の言葉でいう町家で<br />
母、祖母を初めその当時この家にいたおばちゃん、<br />
淑ちゃんなどが忙しく家の中を、裏庭に通じる<br />
はしりもと（流し）の前を行き来している。<br />
時折父の仕事場の職人さんや近くの歌舞練場からの<br />
帰りに寄って行く芸妓はんの姿も見える。<br />
そして自分はというとこれも不思議なことに<br />
現在の自分である。<br />
そこにいる人達は当時の姿で僕は40年経った今の歳で<br />
そこにいる。<br />
その場では、まるで透明人間がある場所に現れたように<br />
周りの人達は僕の存在には一切気が付かずその日を<br />
普通に生きているがごとく動き、笑い、話している。<br />
僕はその真ん中にあるいは立ち、あるいは座って周りで<br />
動く人達を眺めている。ただ時折10歳くらいの少年が<br />
目の前をすーと歩いて行くのが見えることがある。<br />
いつも背を向けているので顔はわからないが着ている<br />
絣の着物でこれがその当時の僕であることに間違いは無い。<br />
夢の中の多くは朝の時間で晴れた春の日、<br />
天窓から入ってくる陽の光が気持ちよく、温かく、<br />
幸せな空気が家中に漂っている。<br />
その光景は僕の目の前で無声映画のように一切の声も<br />
音も聞こえずに流れていく。<br />
そして僕はその温かさに包まれてただ無性に気持ちよく<br />
幸せを感じている。<br />
そして目が覚める。<br />
いつもきまって目が覚めると数秒間、結構長い時間<br />
10秒から15秒間は、目の前に生家の庭に面した<br />
僕の寝ていた部屋の雪見障子があり、<br />
横には祖母のたんす、上には網代編みの天井が見える。<br />
パリの寝室のベットに寝ているにもかかわらず、である。<br />
まさしく現実と夢の狭間であって、自分はパリの寝室で<br />
寝ていることは意識としてきっちりあるのに<br />
目の前に見えているものは40年前の生家の部屋の<br />
調度品であり、建具でありその上にそこにはその部屋の<br />
匂いすら漂っている。<br />
こんな不思議な体験を何度もして<br />
いまだにそれは続いている。<br />
ユングの言う深層心理に深くかかわっている状態だと<br />
思うがいろいろ僕なりに分析をした結果<br />
自分の魂が安らぎを求めて行き着く先がこの夢の場所であり、<br />
時間であることだと思いついた。<br />
思えば小さいころから何処に出かけても<br />
磁石に引き寄せられるごとく家に帰りたくなった。<br />
それ以外は＜落ちつかない＞のである。<br />
このような人間がどうして又30年もパリに住んでいられたのか<br />
自分自身説明に困ってしまう。<br />
僕の身体の何処かでパリと京都は僕の魂が<br />
前世に生まれた時から（もし前世と言うものがあるのなら）<br />
きっと繋がっているのだろう。<br />
雪の京都を発ってパリに帰ってみると暖かい。<br />
しばらくは京都を忘れてパリ時間を過ごすことになる。<br />
そして京都の磁石が僕を捜す頃、初夏の日本に<br />
コンサートとセカンドアルバムの録音のために<br />
帰国する事になっている。<br />
それまでは夢の狭間でパリと京都を何度生きるのだろう。<br />

]]></content:encoded>
    <dc:subject>日記</dc:subject>
    <dc:date>2008-02-10T00:50:33+09:00</dc:date>
    <dc:creator>ワサブロー</dc:creator>
    <dc:rights>ワサブロー</dc:rights>
  </item>

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    <title>東京のビストロ　ヌガ　Le Nougat</title>
    <description>東京渋谷にとてもシックでおいしい＜シノワ＞という
フランス料理店がある。
シノワ〜chinois はフランス語で中国のとか、
中国人とかという形容詞で僕がフランスで耳にした最初の
フランス語の一つなので親しみがある。
なぜこれがフランスで最初に耳にした言葉なの...</description>
<content:encoded><![CDATA[
東京渋谷にとてもシックでおいしい＜シノワ＞という<br />
フランス料理店がある。<br />
シノワ〜chinois はフランス語で中国のとか、<br />
中国人とかという形容詞で僕がフランスで耳にした最初の<br />
フランス語の一つなので親しみがある。<br />
なぜこれがフランスで最初に耳にした言葉なのかというと<br />
その当時はパリの街でよく人に指を指されて<br />
＜シノワ！中国人＞と言われた。<br />
きっと戦後間もなく日本の街を歩いている西洋人は<br />
日本人にとってすべてアメリカ人に見えたのと同じで<br />
多くのフランス人にとって僕は東洋人、そして東洋の<br />
どの国も違いは見えなくてすべて中国が代表、<br />
代名詞になっていた。<br />
いまでこそテレビやインターネットのお陰で世界は狭く<br />
なったが僕がフランスに住み始めた1973年にはパリの街に<br />
公衆電話は無くテレビも２チャンネンルだけ、<br />
それも朝と夜の数時間しか番組が無かった。<br />
日本のあらゆる街には赤色の公衆電話があふれて<br />
テレビも朝から夜まで通しで複数のチャンルで番組が<br />
見られた時代である。<br />
今とは違って当時まだ海外旅行に行く日本人の数は<br />
少なく当然フランスにも今程の日本人は見られず、<br />
日本がエコノミックアニマルとして世界に名を成し始めた<br />
頃である。１９世紀末から２０世紀初めにかけての<br />
パリ万博で浮世絵と共に日本文化がフランスの知識人、<br />
芸術家の間でもてはやされ注目された時代も終わって<br />
特に一般のフランス人には東洋＝中国という意識しか<br />
なくなっていた。驚くべきはフランスとモナコのように<br />
日本も中国大陸の一部であると信じているフランス人に<br />
何人も出会った。<br />
話が横道にそれてしまったがこの僕にとって懐かしい<br />
思い出が一杯の＜シノワ＞という言葉のレストランは<br />
渋谷のビルの中にある。<br />
室内のしつらえがこの名の通り西洋を基調としたなかに<br />
東洋趣味（シノワズリ〜chinoiserie）をうまく生かした<br />
シックで品のいいお店でそこでいただける数々の<br />
フランス料理にもまた東洋（主に日本なのだが）がうまく<br />
感じられて僕の大好きなお店の一つになっている。<br />
この＜シノワ＞のオーナーの後藤さんは知る人ぞ知る有名な<br />
ソムリエで食に造詣が深くその上にクラシック音楽がお好きな<br />
シックで品のある若い男性である。<br />
シノワは渋谷と銀座に２店舗あってそれぞれが<br />
大変繁盛している。<br />
<img src="images/shop.jpg" width="300" height="239" alt="" class="pict" /><br />
そこに今月３軒目の店が開店した。<br />
この店の名前はシノワではなく＜ヌガ、le nougat＞という。<br />
皆さんご存知のフランス菓子＜ヌガ＞である、<br />
が、名前の由来はフランス菓子ではなくて<br />
僕の歌のレパートリーの中の＜ヌガ＞である。<br />
僕が随分以前から懇意にして頂いているご夫妻に連れていただく<br />
お店がシノワでそのご縁で昨年シノワで歌う機会を得た。<br />
そして３件目の店に僕の歌の題名が付き、店の看板には<br />
僕のCDのブックレットにのせてあるあの不思議な象を<br />
選んで下さった。ちょっと余談だがこの象のイラストは<br />
僕の息子がパリの自宅で描いた絵でよくみて頂くと<br />
歌の内容通り象がシャワーを浴びている場面が絵になっている。<br />
１月１３日の＜ヌガ＞の開店パーティには招んで頂いただき<br />
歌った。<br />
ヌガは銀座松坂屋の３本裏の通りにあるフランス風ビストロで<br />
シノワ同様においしいワインが豊富に揃っている。<br />
料理はシノワと比べていわゆる家庭料理、普通フランスで<br />
みんなが気軽に食べる料理が揃っている、<br />
それも前菜、メイン、デザートを<br />
含めて６０種類もの品が揃っている。<br />
店内はシノワとは趣が異なりビストロの名にふさわしく気軽に<br />
入れる雰囲気があって僕が今までに行った事のある<br />
日本のどこのフランス風ビストロよりもよりパリ的で<br />
パリに帰ったような気分になる。<br />
といっても日本にありがちな＜あんた、<br />
ここはフランス料理の店どっせ、わかったはりまっしゃろな、<br />
フランスどっせ、日本とは違いまっせ！＞というような<br />
押し付けがましい勘違いは店の何処にも無く、<br />
もひとつ言えばやはりシノワと同じく、素晴らしい<br />
日仏カップルで生まれた家庭の様に二つの文化が気持ち良く、<br />
仲良くそこにある。<br />
料理はフランス、もてなしは日本というように。<br />
それで肝心のお料理は、あのおいしいシノワの３番店なので<br />
特に驚く事は無いのだが、それでもおいしい！！<br />
ほんまにおいしい！<br />
僕が先日ご馳走になった時のメニューを書いてみると、<br />
ブランダード<br />
（タラの身をほぐしてジャガイモとニンニクで作る南仏の料理,<br />
僕の好物の一つ、これが東京で食べられるとは嬉しい）<br />
本日のスープ<br />
マッシュルームとクレソンのサラダ<br />
たことクスクスのサラダ<br />
(僕はクスクスが大好きで毎日でも飽きない！）<br />
フランス産鳩のロースト<br />
骨付き仔羊のロースト<br />
チーズの盛り合わせ<br />
デザートは<br />
ガトー・ショコラ＋エクスプレッソ<br />
食事中お酒の飲めない僕はフランスの<br />
ガス入りミネラルウオーター、バドワを飲んだ。<br />
Badoit バドワが飲めるんです！ヌガでは！<br />
何とようけ食べて！と思われるだろうが<br />
二人で分けました。念のために。<br />
それでもお腹いっぱいにいただきました。<br />
１人前がちゃんとした量で出てくる。<br />
一つ一つのお皿に満足いく様に量はしっかりしていて<br />
これも嬉しいことの一つ。<br />
すてきなマダムと気持ちのいい若いギャルソンが揃って<br />
ヌガの料理をより楽しく，よりいっそうおいしくいただける<br />
空間が出来ている。<br />
東京にいつもいない事がとても残念！<br />
いれば毎週通うのに！<br />
皆さん、どうぞ<br />
僕の分もおいしく、楽しんで来て下さい！<br />
<br />
Le Nougat  ル・ヌガ<br />
104-0061 東京都中央区銀座6-12-2 東京銀座ビル1F<br />
Tel: 03-6254-5105<br />
営業時間　平日／12:00~14:00 , 17:30~22:45(L.D)<br />
土曜／12:00~22:45(L.D) 、日.祝／12:00~22:00(L.D)<br />
土、日、祝は通し営業です。
]]></content:encoded>
    <dc:subject>日記</dc:subject>
    <dc:date>2008-01-20T00:22:12+09:00</dc:date>
    <dc:creator>ワサブロー</dc:creator>
    <dc:rights>ワサブロー</dc:rights>
  </item>

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    <title>おおつごもりから元旦に</title>
    <description>新年おめでとうございます。
新しい年が皆様に優しく，温かい年であります様に。
そして今年も昨年より数多く日本の皆様とお目にかかれる
機会があります様に。
１２月２３日の東京ヒルトン、クリスマスディナーショーも
無事終えられた。
３００人もの方が来て下さ...</description>
<content:encoded><![CDATA[
新年おめでとうございます。<br />
新しい年が皆様に優しく，温かい年であります様に。<br />
そして今年も昨年より数多く日本の皆様とお目にかかれる<br />
機会があります様に。<br />
１２月２３日の東京ヒルトン、クリスマスディナーショーも<br />
無事終えられた。<br />
３００人もの方が来て下さった。<br />
遠くから来て頂いた方も沢山おられた。<br />
ありがとうございます。<br />
２３日当日は天気予報では雪か雨だった。<br />
雨で中止にはならないけれど大雪が降ると電車が止まったり<br />
新幹線も運休になったりしてこられない方が出た場合は<br />
どうするのかしらと心配した。<br />
雨にしても雪にしても鬱陶しい事には違いない。<br />
特におしゃれをして来られる方には空からはいっさい何も<br />
降ってほしくないに決まっている。<br />
当日、朝目をさましてホテルの２２階の部屋のカーテンを<br />
開けた。<br />
晴天である。<br />
真正面に富士山が見えた。<br />
くっきりと美しい姿が目の前にあった。<br />
僕には霊山信仰は少しもないどころか山にはまったく<br />
興味がないが富士山だけは美しい山だと思う。<br />
フランスにいるので今までにモンブランやスイスの<br />
アイガーなどいわゆる有名な山を目の前に見たり<br />
中腹まで登ったりもした事があるが<br />
大きな感動を覚えた事も無く、とりわけ美しいと<br />
一度も思った事も無いのだが富士山だけは<br />
不思議といつも美しいと思い冬の晴れた日に<br />
新幹線から見える姿にさえ感動を覚えて<br />
電車のデッキまで走って行って見えなくなるまで<br />
見ている事が何度もある。<br />
この日の朝も澄んだ青空を背景に富士山が<br />
見えるとなんだかそれだけで今晩は問題なく<br />
いきそうだ、という確信が全身に湧いた様な気がした。<br />
大きな失策もなしに最後まで歌い終えられ、<br />
アンコールで歌った愛の讃歌のあとまだ拍手が終わらず<br />
大きな声で＜いとつむぎ！＞と何人かの方のかけ声を<br />
受けてもう１曲＜糸紡ぎ＞を歌った。<br />
２曲のアンコールは久々で、嬉しく、初めての東京での<br />
クリスマスディナーショーを盛会の中、２００７年最後の<br />
コンサートの幕を締める事が出来た事に<br />
深く感謝をしています。<br />
翌日京都に戻るために乗った新幹線の中からも<br />
夕陽に照らされた富士山が美しかった。<br />
この前、年末に日本に帰ったのはいつだったのか<br />
思い出せないくらいに久し振りの日本での年末年始である。<br />
京都に戻って仕舞い天神（北野天満宮の毎月２５日の縁日で<br />
１月は初天神、１２月は仕舞い天神と呼ばれている）に詣って、<br />
おおつごもりは３０年ぶりにおしめ縄と根引きの松の門松<br />
それにちょろけんさんといって家の各所、水廻りや鬼門に飾る<br />
簡単なおしめ縄（裏白とゆずりはと御幣をつける）を作って、<br />
かざり、家のものがお煮しめ（おせち）を準備している間に<br />
僕は大掃除をした。家には大正時代のガラス戸が多いので<br />
何十枚のガラスを割らない様に磨いた事になるのか、<br />
肩がいたかった。<br />
祝い箸に家族それぞれの名前を筆で書き，菜箸を組重と書いて<br />
翌日の用意が整った。<br />
その夜は家の近くの禅寺に友人に誘われて除夜の鐘を<br />
つきに行った。<br />
ろうそくの明かりだけが広い寺の中を照らしている静かな<br />
寺院の鐘楼の前で和尚と共に般若心経を唱和のあと<br />
一人ずつ上がって鐘をついた。<br />
荘厳な響きが寺の上空を舞い上がり、満天の星空を駆け抜けた。<br />
お寺で年越しそばをいただき元旦を迎えた。<br />
３０年来パリでは１２月３１日は友達の家でパーティーをして<br />
１２時の時報と共に＜ボンナネ！bonne annee!＞と抱き合って<br />
迎えた新年とは全く違っていたが僕には何故か鐘の音の方が<br />
気持ちがなごやんだ。<br />
夜中に北野天満宮まで初詣に出かけて翌日は家族で初めて京都で<br />
新年を祝いお雑煮をいただいた。<br />
特にパリで生まれ育った長男には初めての事である。<br />
京都のお雑煮は白みそ仕立てで丸餅を焼かずに入れ、<br />
薄切りの人参とおだい（だいこん）と男には頭芋を入れて<br />
男は赤、女は黒の大きな蓋付きの祝い椀をやはりこれも男は赤、<br />
女は黒の足付きの祝い膳（女性の方のが高くなっている）<br />
にのせて出す。<br />
もちろんお雑煮は細く切った昆布と梅干しの入った<br />
お茶をいただいてからである。<br />
お重に詰められた数々の煮物にはすべてわけがありいわれがある<br />
と昔祖母が言っていたが、一部のものを除いて今はもう<br />
思い出せない。<br />
お重の中の冷たい煮物が口に入った瞬間、時はさかのぼり<br />
母や祖母，おばちゃんや妹たちと祝った40年前のお正月が<br />
目の前に浮かび上がった。<br />
玄関には金屏風，赤い毛氈が敷かれて床の間には<br />
松の飾りがあった。<br />
十畳の間に１０人近くの家族が美しい着物で揃って<br />
お正月を祝った。<br />
迷っていた魂がふるさとを見つけたような気分がした。<br />
元旦に届いた１０数枚の年賀状が嬉しかった。<br />
僕は今、応仁の乱で西軍総大将の山名宗全が<br />
堀川よりも西に陣を置いた事に名前の由来がある西陣に<br />
住んでいる。<br />
この地域には今も古い家が多く残り、むしこ窓も<br />
格子窓もある家が多いのでさぞお正月にはおしめ縄も<br />
門松も何処の家の門口にも見られるのだろうと<br />
期待をして待った。<br />
僕がお飾りをつけた３０日にはまだ何処の家にも<br />
正月飾りはなかった。<br />
みんなぎりぎりにしはるんやなあ！と思って<br />
元旦を迎えたが見事に廻り中何処の家にも<br />
お飾りは無く、わずか１、２軒の家で<br />
おしめ縄が見られただけだった。<br />
僕には大きなショックで理解しがたい実情である。<br />
クリスマスには派手なイリュミネーションが<br />
何軒もの家に見られたのに。<br />
僕は毎日落ち着きの無い日々を生きているので<br />
時の流れる細かな音や変化にともすれば気がつかなく<br />
なっている。<br />
きっとそれだからこそ折りあるごとに月日の移ろい、<br />
季節が変わるのを目で、身体で感じたくなってしまう<br />
のだろう。<br />
そのための指標の一つがが少年時代に家の中にあった<br />
ようような伝統行事である。<br />
その度にそれに必要な食器や調度品を閉まってある押し入れ<br />
から出して埃を払い箱から出して飾ったり，使ったりすること<br />
で自分の身体に四季が移ろい，流れている時がふっと<br />
止まった様に感じる、その感触がとても好きで、<br />
伝統や習慣に忠義立てをしているのではない。<br />
とはいうものの長い年月をかけて先人たちが作って来た<br />
かずかずの物には生きるための知恵と美学が詰まっている。<br />
それを無視するには余りにも僕は多くの逝った人達に今なお<br />
生かせてもらっている気持ちを日々忘れる事が出来ない、<br />
ただそれだけのことなのだが。<br />
３０年ぶりのおおつごもりから元旦を京都で迎えて<br />
今はいない僕の大好きな人々に長年の不義理を<br />
少しは繕う事が出来たかもという気がしている。<br />
今晩はかなり冷え込んでいる。<br />
奥の間の雪見障子から庭を見ると粉雪が舞っている。<br />
パリに帰る日が近づいて来た。<br />
<img src="images/_1068602.jpg" width="240" height="320" alt="" class="pict" /><br />
嫁隠しにつけたちょろけんさん<br />
<img src="images/_1068594.jpg" width="240" height="320" alt="" class="pict" /><br />
おしめ縄<br />
<img src="images/_1068593.jpg" width="240" height="320" alt="" class="pict" /><br />
根引きの門松
]]></content:encoded>
    <dc:subject>日記</dc:subject>
    <dc:date>2008-01-03T02:13:30+09:00</dc:date>
    <dc:creator>ワサブロー</dc:creator>
    <dc:rights>ワサブロー</dc:rights>
  </item>

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    <title>東京のクリスマスディナーショー</title>
    <description>１２月２３日東京ヒルトンホテルで
クリスマスディナーショーのため日本に帰ることに
なった。
クリスマス、年末に日本にいるのは何年ぶりだろう。
２０年ぶりかもしれない。
多くのフランス人にとってのクリスマスは実家に戻り
久しぶりに顔をあわせる両親、兄弟、...</description>
<content:encoded><![CDATA[
１２月２３日東京ヒルトンホテルで<br />
クリスマスディナーショーのため日本に帰ることに<br />
なった。<br />
クリスマス、年末に日本にいるのは何年ぶりだろう。<br />
２０年ぶりかもしれない。<br />
多くのフランス人にとってのクリスマスは実家に戻り<br />
久しぶりに顔をあわせる両親、兄弟、姉妹 で<br />
テーブルを囲んで年に１度の御馳走を食べ、<br />
クリスマスツリーの根元に置いたプレゼントを<br />
１２時の鐘の音と共に<br />
交換してシャンパンでクリスマスを祝い<br />
敬虔なカトリック信者は２４時から始まるそれぞれの<br />
町にある教会の深夜ミサに出かけて行く。<br />
全ての人たち特に子供達には１年中で一番楽しい日で<br />
あり夜更かしが出来て、両親から、おばあちゃんや<br />
おじいちゃんから一杯のプレゼントがもらえる<br />
特別な夜でもある。<br />
日本のお正月を想像してもらえればいい。<br />
テーブルの上には生牡蠣、フォワグラ、<br />
サーモン・フューメ、オマールエビ、鳥のロースト<br />
それに僕の大好きな白のブーダン<br />
（腸詰めのソーセージ）、<br />
お金持の家にはもちろんキャビアも欠かせない。<br />
僕も毎年、３０年近くNOEL <br />
(ノエル、フランス語でのクリスマス)<br />
には大きな樅の木を家に飾り、数十個の殻付きの生牡蠣を<br />
市場で買って来て自分で開けて、<br />
オマールエビは大きな鍋に<br />
いっぱいのお湯を沸騰させて生きているエビを入れて<br />
茹でる。かなり勇気がいるので（やはり殺生ですから）<br />
＜すんまへん！迷わず成仏しとおくれやす！＞とか<br />
何とか勝手な事を心で叫んでずばっ！と入れてしまいます。<br />
あとはフォワグラを切ってお皿に並べ、サーモンの薫製も<br />
きれいに並べてレモンを添えて、白いブーダンは<br />
フライパンで焼いて出す。<br />
年々お正月のおせちは料理屋まかせや百貨店での<br />
しつらえものになっている日本とは違って<br />
フランスではまだまだお母さんたちは年に一度の<br />
クリスマスの御馳走を数日かけて作っている家が多い。<br />
フランスに実家のない僕達は何度もいろんなフランス人の<br />
家に招かれて友人と共にその家族と一緒にクリスマスを<br />
過している。<br />
フランス人達はおしゃべりと共にダンスが大好きで２４日も<br />
３１日も夜中から明け方迄踊って楽しむ人がほとんどである。<br />
踊り疲れてお腹がすいたらオニオン・グラタンスープを<br />
夜食に作ってよく食べさせてもらった。<br />
寒い夜のオニオングラタンのスープは格別においしい！<br />
こんな例年のクリスマスを離れて今年は東京で<br />
歌う事になった。<br />
フランス人の親友にその事を報告して<br />
＜今年は一緒に過ごせへんなあ＞と言ったら、<br />
可哀想にクリスマスも仕事か！と哀れんでくれた。<br />
僕は初めての経験なので結構嬉しい。<br />
いつもとは違った演出で、フランス語で<br />
クリスマスソングなども歌って大いにNOELを皆さんと<br />
楽しみたいと張り切っている。<br />
フランスから持ち帰ったチーズやヌガも<br />
食べて頂きたい。<br />
もちろん税関で引っ掛らなかったら、であるが。<br />
僕が日本にいた頃のクリスマスとはきっと様子も違って<br />
いるだろう。<br />
パリのシャンゼリーゼ大通りの並木道を飾る<br />
イリュミネーションしか僕は知らないが<br />
きっと東京にも其れにもまして華やかな<br />
ものがあらわれるに違いないと始めて行く外国のように<br />
楽しみにしている。<br />
今年最後の僕の日本でのステージを会場満員の<br />
皆様と一緒に楽しく過せればこのうえなく幸せに<br />
違いない。<br />
どうぞお友達と御一緒にあるいは御夫婦で<br />
ぜひおいで頂きたい。<br />
そしてこのブログを読むまでこのディナーショーのことを<br />
ご存知なかった方は今すぐ申し込んでまだ遅くはないです！！<br />
あれやこれやと特別の趣向をスタッフ一同と<br />
考えている最中である。<br />
<img src="images/01.jpg" width="240" height="180" alt="" class="pict" /><br />
シャンゼリゼ大通りの今年のイリュミネーション
]]></content:encoded>
    <dc:subject>日記</dc:subject>
    <dc:date>2007-11-17T22:11:31+09:00</dc:date>
    <dc:creator>ワサブロー</dc:creator>
    <dc:rights>ワサブロー</dc:rights>
  </item>

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    <link>http://wasaburo.officekuroko.com/?eid=551021</link>
    <title>京都の家</title>
    <description>暑い夏もいつの間にか何処かに行ってしまい
朝夕は涼しくなってしまった。
夏の大好きな僕にとっては涼しくなったというよりも
なってしまったと少しの気持ちの不満を
この一行に込めてみた。
今年夏、パリは冷夏で８月半ばも連日１８度という日も
多く薄手のコート...</description>
<content:encoded><![CDATA[
暑い夏もいつの間にか何処かに行ってしまい<br />
朝夕は涼しくなってしまった。<br />
夏の大好きな僕にとっては涼しくなったというよりも<br />
なってしまったと少しの気持ちの不満を<br />
この一行に込めてみた。<br />
今年夏、パリは冷夏で８月半ばも連日１８度という日も<br />
多く薄手のコートで過ごしていた。<br />
その上雨も多くて憂鬱の極限状態の中、<br />
日本に着いてみると今度は３８度という<br />
こちらも観測史上何十年ぶりとかという猛暑で一夜にして<br />
２０度の温度差の中で引っ越しという仕事（？）が待っていた。<br />
僕は日本に戻ってくると京都の小さいマンションを根城に<br />
滞在中は動いている。遠くに出かける時はホテル生活で、<br />
気軽さが快適でたまに戻ってくる日本の滞在によくあっていた。<br />
それがいつの間にか京都にいる時は京都人に還ったような気分が<br />
し始めてわずかの間でも昔からの京都人として過ごしたいと<br />
いつの頃からか思い始めていた。<br />
それは歳を追う度に強くなりやがて大きな願望として<br />
自分の存在に必要不可欠なもののように感じるようになって<br />
どうしようもなくなって来た。<br />
京都人として過ごすためにはまず京言葉をきっちり話しもちろん<br />
伝統的な京都の家に住まなければならない、<br />
少なくとも僕の思いの中ではこのような法則が出来てしまった。<br />
京言葉は幸い長いフランス生活の間にフランス語の植民地に<br />
ならず僕の身体の中のカプセルに閉まっておいたように<br />
残っていたのでそれに磨きをかければいいだけで思う様に<br />
操る事が出来た。<br />
しかし家の方はそう簡単にはいかず周りの人にも<br />
声をかけてみたが何の反応も得られず思いが満たされないまま<br />
数年が経ち僕の生活にも少しずつ変化が出て来た。<br />
パリで録音したCDが昨年発売され事務所も東京に出来て<br />
日本へ帰る事が多くなったのを機会に思いを遂げようと<br />
今年の４月、日本公演を済ませたあと早速本腰を入れて<br />
＜家＞を探し始めた。<br />
無論貸して頂く家をである。<br />
探し始めてみると以外とまだ京都には町家が多く残っているのに<br />
気がついた。町家と書いたがこれは近年の言い方で<br />
＜おばんざい＞同様、僕の子どもの頃には普通の会話では<br />
使わなかった言葉なので初めて聞いた時にはどのような家をさす<br />
のかわからなかった。特に僕の生まれ育った上京区西陣界隈には<br />
むしこ窓をあしらった江戸時代に出来上がった様式の家が<br />
多く残っている。この虫籠窓のほとんどは中二階の様に<br />
なっていて小さい頃には生糸などを竹竿に吊ってここで<br />
乾かしている家が多くあった。<br />
虫籠窓の由来は大名行列の際２階から<br />
見下ろせない様に低く通りも見えにくくするための窓として<br />
作られたらしい。<br />
溝口健二の近松物語に出てくる京都の町の風景にも<br />
この窓付きの家が並んでいるのが見える。<br />
僕の生家は上七軒という京都では一番歴史がありその上、<br />
芸妓はんの芸が一番格があると言われた花街の真ん中に<br />
あったのでその家の造りも明治初期のお茶屋仕立ての家で<br />
表は格子窓、中は吹き抜けの台所に、煮炊きもののための<br />
おくどさんがあり、形の良い松の木が真ん中にある中庭の<br />
廊下づたいに２階建ての離れ座敷があり、その後ろに<br />
まだ大きな裏庭があって背の高いシュロの木が<br />
黒塀の塀越しに何本も立っていた。<br />
このスタイルの家にはむしこ窓はなく２階は高くて<br />
欄干があり葭簀（よしず、葦を編んで作った簾）が<br />
掛けてあった。<br />
今でも上七軒や祇園町のお茶屋に見られる家の形で、<br />
この他に明治末期から昭和の初めに建てられた<br />
二階建ての建物も現在町のあちこちに見られる。<br />
でもいざ本気になって探し始めるとあちこちにある割には<br />
なかなか貸し物件は見つからず町家協会、町家保存会その他<br />
この種のいま大流行りの色んな町家に関わる所に顔を出し<br />
登録して歩いたが紹介される家のほとんどは小さかったり<br />
配置が悪かったり路地の奥だったりと気に入らない。<br />
なまじ町家で育っただけに近年の町家の流行に誘われて<br />
地方からおいでになる方々とは違い家の前に立っただけで<br />
その家の造りから住んでいた人の職業までもある程度想像が<br />
ついてしまうので自分にあう家となると実に難しく<br />
時間が経ってパリへ帰らなければならない日が近づいてきた。<br />
もう見つからへんわ！と諦めかけていたら偶然若いご夫婦で<br />
経営してられる町家専門の不動産屋を見つけて入った。<br />
京都出身の若いお二人は真剣に僕の勝手な話に<br />
あきれる様子も無く耳を傾けて聞いて下さった。その数日後に<br />
＜ワサブローさん、一軒ありまっせ、A級どっせ＞と<br />
連絡が入った。<br />
僕のマンションから徒歩１０分くらいの所にある大正末期に<br />
建てられた２階建ての仕舞た屋で３軒同じタイプの家が<br />
並んでいた。<br />
勿論僕の生家よりも築年数は新しく,おくどさんこそないけれど<br />
京都の家のなごりは十分に残っている。一番奥にはつぼ庭があり<br />
その周りを半円に廊下が走って突き当たりにトイレ<br />
（お便所という方がふさわしい）がある。<br />
世紀末＜１８００年半ばから１９００年初頭＞が<br />
こよなく好きな僕としてはちょっと新し過ぎる時代のものだが<br />
それでも１９２０年代アールデコ、大正ロマンの時代であって<br />
これも悪くない。表のガラス戸にはダイヤガラスが<br />
入れてあり縁先のガラス戸には建設当時の歪みのある<br />
僕の好きな地模様のある古いガラスが入っていた。<br />
気に入って貸して頂きたいと申し出たら身分証明書と収入証明、<br />
それに保証人をつけて査定の後に決まるとおっしゃった。<br />
フランスでは身分証明書は要るが保証人はいらない。<br />
そのかわり家賃の４ヶ月の給料証明が必要となる。<br />
僕たちアーチストにはこの給料証明は大変難しいもので<br />
高級サラリーマンの候補がいると必ず負けてしまう。<br />
日本では以前VISAカードを手に入れるのに<br />
大変な思いをしてやっと手に入れられた想い出がある。<br />
日本ではダンサーと歌手が一番社会の信用が無いといわれた。<br />
やはり河原乞食の伝統かもしれないと思っている。<br />
もちろん定期収入のない僕の様な仕事の人間には<br />
年間収入提出という超えにくいハードルもあるのだが。<br />
ともあれ査定は合格してこの大正時代の家を貸して頂く事になり<br />
いままで根城にしていたマンションからこの家に歩いて１０分の<br />
ところをそれでも大きなトラック１台の引っ越しをした。<br />
この京都の家に似合うフランスの家具などもパリの自宅から<br />
送ったために８月９月と２ヶ月に渡り引っ越しが続き、<br />
それも猛暑の中で行った。<br />
３年前にパリの中で引っ越しをしたときもうしばらくは<br />
段ボール箱の顔も見とうない！とおもっていたのに<br />
今回はそのとき以上の段ボール箱の数があった。<br />
１０月に入ってその恐ろしい数の段ボール箱も<br />
家から一つづつ消えて行き、やっと少し家の中も片付いた。<br />
自分の好きな古い建具を京都夷川にある建具屋さんで買い、<br />
夏の間敷いていた藤筵＜とうむしろ＞もかたずけて障子も入り、<br />
パリから届いた３０年来手放した事の無いランプに灯をいれて<br />
愛用の机の前に座り、いまこのブログを書いている。<br />
長い間忘れていた新しい畳の匂いが懐かしい。<br />
町家に住むという事はその家の息づかいにあわせてそこで生活を<br />
するという事で、決して自分の都合のいいように<br />
その家を合わせようとしてもだめだと<br />
二十歳まで本物の町家で育った経験のなかでよく知っている。<br />
夏は暑く冬は寒くと季節にあわせて生きて行くと言う事だろう。<br />
これでこれからは本当の意味での和洋折衷を生きる事になる。<br />
１８世紀のパリのアパートと２０世紀初頭の京都の家、<br />
全くコンセプトが違う二つの生活との中で身体がどのように<br />
反応して行くかちょっと楽しみである。<br />
きっと自分の歌も変わって行くに違いないと<br />
様子をうかがっている所である。
]]></content:encoded>
    <dc:subject>日記</dc:subject>
    <dc:date>2007-10-08T13:35:44+09:00</dc:date>
    <dc:creator>ワサブロー</dc:creator>
    <dc:rights>ワサブロー</dc:rights>
  </item>

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    <title>モンマルトルのラパンアジル</title>
    <description>先日パリへ遊びに来られた知人をお連れしてモンマルトルに
ある、ラパンアジルというシャンソンの店へ久し振りに
出かけた。この店の名前はフランス語で
au lapin agile 、ラパンはウサギのことなので
直訳すればはつらつなウサギとでも
訳しておこう。きっとこの店...</description>
<content:encoded><![CDATA[
先日パリへ遊びに来られた知人をお連れしてモンマルトルに<br />
ある、ラパンアジルというシャンソンの店へ久し振りに<br />
出かけた。この店の名前はフランス語で<br />
au lapin agile 、ラパンはウサギのことなので<br />
直訳すればはつらつなウサギとでも<br />
訳しておこう。きっとこの店の性格から考えると<br />
agile＜鋭敏、溌剌、回転の速いなど＞というこの店の名前に<br />
使われているフランス語には、シャンソン特有の言葉遊びや<br />
歌詞の中の言葉の裏に隠されている別の意味を含んでいる<br />
事が想像出来る。上質なシャンソンの歌詞には韻がきちんと<br />
踏まれている事が多く、その上に二重，時には三重の<br />
意味を含む言葉使いをすることも多く、もちろんアルゴ<br />
（argot)といわれる隠語、スラングの種類からその時代を<br />
象徴する言葉や色んな言葉遊びもふんだんに入っている。<br />
この微妙で色んなエキスが重なって味付けされた料理の<br />
様な妙味を味合うにはそれなりのイマジネーションが<br />
必要になり、したがって五感もフルに回転しないと<br />
いけない。そんなところからこのagileという名前も<br />
ついているのではと思ったりした。<br />
このシャンソンの店の歴史は古くて１９世紀末に<br />
＜au rendez-vous des voleurs ,泥棒たちに会える所＞<br />
という名前で始まり、＜le cabaret des assassins,<br />
人殺したちのキャバレー＞になりそして１８８６年に<br />
フレンチカンカンの踊り娘だったアデル・ドウセルフに<br />
買い取られ＜a ma campagne私の田舎で＞<br />
という店になった。<br />
彼女の得意料理がウサギのソーテ（炒め物）だった<br />
ところから当時の風刺画家だったアンドレ・ジルが<br />
鍋から飛び出ているウサギの絵を描きそれをこの店の<br />
看板にした。そのときジルのウサギ＜lapin a Gil＞を<br />
文字って＜lapin agile 発音は一緒＞ラパンアジルとなり<br />
現在に至っている。このジルが描いたその当時の看板は<br />
モンマルトル美術館に保存されている。<br />
１９０３年にトウルーズ・ロートレックのポスター画で<br />
おなじみの黒いマントに赤いマフラーの風刺歌手で<br />
作家のアリスティッド・ブルアンがラパン・アジルを<br />
買い取ったのち、支配人をしていた<br />
フレデリック・ジェラールに遺贈する。<br />
フレデ父さんとみんなに親しまれたフレッドは<br />
色んな趣向を凝らしラパンアジルは新しく生き返り、<br />
自らギターを鳴らしチェロを弾くフレデ父さんを<br />
囲むようにモンマルトルのラーボエーム〜放浪者達が<br />
集う場所となった。毎晩フレデは歌い、<br />
そこに集まった人達も歌ったり詩を朗読したり<br />
瞬く間にラパンアジルは芸術家と諷刺歌手にとって<br />
聖堂のような場所となった。<br />
風車小屋が建ち並ぶパリ郊外の田舎村だった１９世紀末の<br />
モンマルトルには後にモンパルナスに移り<br />
エコールド・パリの創始者となる画家のピカソ、<br />
モディリニなどをが住んでいた。<br />
ピカソは愛犬フリカを連れてラパンアジルのテラスの椅子に<br />
腰掛けてフレデ父さんを描きその娘のマルゴも絵に描いた。<br />
コラヴァケールの持ち歌＜フレデ＞はこのフレデ父さん<br />
のことを歌っている。<br />
モンマルトルにいた多くのアーチスト、ルノワール、<br />
ユトリロ、ブラック、詩人のマックス・ヤコブ、<br />
フランシス・カルコ、マルセル・プルーストも<br />
この店の常連だった。詩人のアポリネールは<br />
この店で画家のマリー・ローランサンとの<br />
逢い引きを楽しんだが有る事件に巻き込まれそれが原因で<br />
マリー・ローランサンとの恋ははかなく終わってしまう。<br />
ミラボー橋の上から流れゆく緑色のセーヌ川を見ながら<br />
＜ミラボー橋の下セーヌは流れる　我々の恋を　<br />
思い出さなくては行けないのか　<br />
喜びは常に悲しみの後に来た　<br />
夜よ来い　鐘よ鳴れ　日々は去り　私は残る＞と詠った。<br />
アズナブールの＜ラ・ボエーム＞の歌の世界を生きた<br />
ラパンアジルは今日、昔日を懐かしんで戸を開ける<br />
往年のシャンソンフアンやヨーロッパ各地の観光客<br />
それに大勢の日本人観光客で賑わう観光スポットとして<br />
生き長らえている。<br />
僕は３４年前、パリに住み始めた頃初めてここを訪れた。<br />
２月の寒い日で数日前に珍しく大雪が降りモンマルトルの<br />
あちこちに掻き揚げた雪が積まれていた。<br />
それ以来パリには積もる様な雪は一度も降っていない。<br />
ロートレック、モディリアニ、アポリネールなど大好きな<br />
パリ１９世紀末の象徴の一つとしてのラパンアジルの事は<br />
日本で知っていたのでこの歴史的建造物の敷居をまたぐ日を<br />
楽しみにしていた。この雪の美しいモンマルトルの風景と<br />
共に期待が裏切られたこの日は<br />
記憶にいつまでも残っている。<br />
そこにはプルーストもプレベールもコクトーもいなかった。<br />
屋根裏に残されていた容器から見つかったひからびた<br />
さくらんぼには、初夏の日さくらんぼを摘みにいく太陽に<br />
照らされた若者たちの声は聞こえず、古ぼけた映画館で見る<br />
懐メロの歌謡ショーか民謡酒場のような数々の歌と歌い手は<br />
日本の同じ様な小屋を連想させた。<br />
それから何度か日本からの知人にせがまれて仕方なく<br />
出かけたが印象は増々悪くなるばかりである。<br />
その上にお連れした日本の皆さんは<br />
誰一人歌の合間に居眠らなかった人はいない。<br />
これがまた一応体裁を構う京都人とパリ人の両方の<br />
文化の中で育った僕としてはかなり辛い事で<br />
何度ももう絶対いかんとこ！とその時は思うのだがやはり<br />
＜せっかくパリに来たんやから，<br />
シャンソンを聴いて帰らんと！＞<br />
という友人、知人の懇願にまけて行く事になってしまう。<br />
京都に来た人が祇園コーナーで舞妓の実演踊りを見るのとは<br />
違い、伝統芸能でも大道芸人の実演でもない＜シャンソン＞は<br />
何処そこの店でやっているものではない。<br />
そのかわりテレビでもラジオでも１日中何処の番組でも<br />
フランスのシャンソンはかかっているし<br />
パリのいくつかの劇場では色んな歌手のコンサートを<br />
やっている。これは東京の事情と同じ事で、<br />
特に日本人の好きな日本人の描くパリのシャンソンというものは<br />
日本以外何処にもないものである。<br />
いままで何人もの方たちとラパンアジルにお付き合いした。<br />
皆さん１週間ほどの短い日程で来られるためスケジュールが<br />
ハードな上に時差がとれるまでにお帰りになるため食事の後に<br />
出かけるラパンアジルはゆらりゆらりと舟をこぐ場所となる。<br />
ここの店は小さくて歌い手は目の前で歌っている。<br />
その目の前で皆さん１曲目が始まって室内が暗くなった<br />
とたんにこっくり、こっくりと始められるのである。<br />
ベンチ椅子に並んで腰掛けるために枝に止まった鳥<br />
（小鳥と書きかけたがちょっと抵抗があるので。。）<br />
のように並んであたかも木の下においしいものが<br />
落ちているように下を向いたままで身体が揺れている。<br />
１曲終わって拍手をする時は不思議とどなたも目を開けて<br />
拍手をなさり、また曲が始まると居眠りも始まる。<br />
僕はその都度せめて一人ぐらいきっちり目を開けて<br />
聞いてんと恥ずかしいと思ってあたかも聞き惚れている<br />
様な振りをして身体を乗り出して聞く事になる。<br />
下を向いてられるだけならまだいいがそのうちにいびきが<br />
聞こえてくる。皆さん白川夜舟状態で<br />
静かな部屋にピアノと歌だけの中ふっとした<br />
音符の合間にズウーズウー、ググーー，フウーと<br />
聞こえてくる。それもかすかにではない。<br />
そうなると僕は歌い手や他のお客の視線がいびきの主に<br />
行かないように咳払いをしたりして一生懸命注意を僕の方に<br />
促す事に専念しなければならない。<br />
そうして曲が終わると皆さんも目を覚まし拍手をして<br />
また始まるといびきも始まるという具合で１ステージが<br />
終わる頃には僕は神経がくたくたになってくるので<br />
皆さんを説得して退散することになる。<br />
もちろん疲れも何も忘れるくらいに素晴らしいものを聞かせて<br />
頂けるのであればきっと眠気も逆にすっ飛んで我を忘れて<br />
聞き入ってしまうのだろうから問題はこっちの日本の人に<br />
ばかりあるわけでもないとはわかっているが。<br />
歌というアートがクリエートと繋がっている世界で<br />
歌い手として生きている僕にはラパンアジルはパリの<br />
ワーストテンに入る場所として位置づいてしまった。<br />
何年もこの業から解き放たれていたところ先日どうしても<br />
また行くはめになってしまった。どうにかしてやめるように<br />
言ってみたが聞き入れては下さらず入ってしまった。<br />
店内には程々に人がいて一応満席だった。<br />
手前のベンチシートに４人１列に並んだところで<br />
室内の照明が消えて薄暗くなり歌が始まった。<br />
僕は久し振りだったので古い船乗りの歌を聴き始めた。<br />
そして隣を見ると頭が下がっていた＜えっ、やっぱり＞と<br />
思ったが歌が進むに連れて頭は下がる一方である。<br />
１ステージの最後の歌ではやはり枝に止まった鳥のように<br />
３人ともと頭がさがり僕一人目を大きく開けて歌い手の<br />
注意を引くようにしていた。<br />
なんとか持ちこたえて３人目のステージになった。<br />
若い男性歌手がギターを弾いて歌い始めた。<br />
ギターのキーと声のキーが<br />
微妙に違い（というか音程がすこぶる悪いだけなのだが）<br />
僕も聞き惚れる態度はさすがにとりにくかった。<br />
急に彼が裏声を出し始めた。その音程がまた非常に<br />
悪かったのでさすがに下がっていた３人の頭がすーっと<br />
上を向いた。皆さんはっきり目をさまされて、出ましょう！<br />
と意見が一致した。<br />
モンマルトルの古いぶどう畑の前に出た。<br />
７月の夜まだ薄い群青色が残るパリの空が目の前にあった。<br />
室内の酸欠状態から胸いっぱいに空気を吸い込んだ。<br />
自由とはこれか！と叫びたい開放感があった。<br />
もう絶対ラパンアジルには行かないぞ！<br />
ウサギは食べる方が絶対いい！<br />
<div align="center"><img src="images/lapin.jpg"></div><br />
<br />
<br />
<br />
<br />

]]></content:encoded>
    <dc:subject>日記</dc:subject>
    <dc:date>2007-07-28T08:49:25+09:00</dc:date>
    <dc:creator>ワサブロー</dc:creator>
    <dc:rights>ワサブロー</dc:rights>
  </item>

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    <title>７月１４日と巴里祭</title>
    <description>初めてフランスに来た年、
フランス人にパリ祭はどこで行われるのか？と尋ねた。
尋ねられたフランス人は怪訝な顔をして
＜パリ祭,fete de Paris?＞とは何のことかと尋ね返してきた。
僕は＜このおっさん、パリ祭も知らへんのか、どこの田舎の
人や！？＞と思って、...</description>
<content:encoded><![CDATA[
初めてフランスに来た年、<br />
フランス人にパリ祭はどこで行われるのか？と尋ねた。<br />
尋ねられたフランス人は怪訝な顔をして<br />
＜パリ祭,fete de Paris?＞とは何のことかと尋ね返してきた。<br />
僕は＜このおっさん、パリ祭も知らへんのか、どこの田舎の<br />
人や！？＞と思って、いろいろ知っている限りのこの＜パリ祭＞<br />
のわずかな知識を屈指して説明をしたがなかなか<br />
わかってもらえず、もちろんその当時の僕のフランス語の語彙の<br />
なさにも多いに原因があったのだが、最後に<br />
ルネ・クレールの映画、日本語のタイトルが<br />
＜パリ祭＞の話を出した。<br />
そのおっさんはうん〜と唸りながら＜あっ！キャトルズジュイエ<br />
＝quatorze juillet 7月１４日！でしょ！＞と叫んだ。<br />
僕は＜quatorze juillet ? ７月１４日　てなんやろ？＞と<br />
思ったがその人は＜ははは！と笑って、何？７月１４日のことを<br />
日本ではfete de Paris,（日本語の直訳はパリの祭り）<br />
というのか？まあそらそうかもしれんけど、<br />
これはパリだけの祭りと違うてフランス全土、<br />
全部のフランス人の祭りなんや＞と言ったことを<br />
良く覚えている。今日は７月１３日、明日は１４日，<br />
いわゆる日本でいうパリ祭、<br />
７月１４日はフランスの革命記念日。<br />
１７８９年ルイ１６世の統治下のパリで不満を爆発させた民衆が<br />
当時旧体制支配のシンボルとされていたバスティーユの牢獄を<br />
襲撃した日で、その日を境にフランスは共和制の道を進み一旦は<br />
ナポレオンの台頭で王政が復活するものの今のフランス共和国の<br />
基礎が築かれた日とされ１７９７年より７月１４日は<br />
革命記念日とされた。<br />
日本のほとんどの祭りは豊穣祭や疫病の退散を<br />
神に祈る祭りなので特に農業国であるフランスのパリ祭であれば<br />
野菜やブドウの収穫を祈願あるいは喜ぶ祭りのように想像される<br />
日本の方もあるだろうがこの７月１４日は<br />
軍隊のパレードの祭りである。<br />
１８８０年〜１９１４年まではロンシャンの広場で、それ以降は<br />
ドイツの占領下にあった第二次大戦中１９４０年〜４４年の<br />
４年間パリ祭がなかった時期をのぞいてパレードの場所は<br />
シャンゼリゼ通りに移された。<br />
１９７４年にはバスチーユ〜レプブリック広場、<br />
１９７５年はナシオンの広場に面したクールドヴァンセーヌ通り<br />
１９７６年には再びシャンゼリーゼ大通り、<br />
１９７７年エコール・ミリテール、１９７８年シャンゼリーゼ、<br />
１９７９年レプブリック広場〜バスチーユ、<br />
１９８０年にシャンゼリーゼ大通りに場所が戻ってからは<br />
ミッテラン大統領、シラク大統領それに<br />
今年のサルコジー大統領もシャンゼリーゼ、いわゆる凱旋門から<br />
コンコルド広場までの４kmをパレードの場としている。<br />
当日はフランスに有る陸，海、空軍の軍機、兵隊の<br />
パレードが行われる。<br />
空では最新の軍機のデモストレーション＋大空に<br />
青白赤の交差したラインを描くなどのショーがありシャンゼリゼ<br />
通りには何百の異なる部隊の軍隊、消防隊、警察隊に加えて<br />
いくつものフランスを代表するそれぞれの部隊の伝統的な<br />
衣装に身を包み誇り高く歩く軍人や騎馬兵、戦闘車、<br />
オトーバイに乗った美しく，勇ましい男たちの（このごろは<br />
女性も多くいる）行進を見ることが出来る。<br />
テレビで見ているとそれぞれの部隊が通常どのような活動を<br />
しているのかが解説でよく解る。<br />
警察のオートバイ隊はBMWとYAMAHAに乗っている。<br />
今年、サルコジー新大統領は歴代の大統領が行って来た<br />
伝統的な演説をやめる他、特に国家、国民のために亡くなった<br />
２０００人の軍隊、消防隊員、警察官に敬意を表して<br />
大統領官邸のガーデンパーテイにその家族たちを招待する。<br />
それに今年のパレードには初めてユーロッパ共同体の２６カ国<br />
の軍隊の行進もありとくにこの機会にヨーロッパ共同体の<br />
重要さを国民にさらに世界に向かって発信しようという<br />
＜サルコ＞の意図である。ヨーロッパ共同体の、首相、議長を<br />
初めその国々の重要人物も初めて多く訪れる予定で<br />
行進の終着場所コンコルド広場のVIP観覧席はこの革命記念日の<br />
歴史に新しい名前を刻むことになる。<br />
そのパレードには今年初めて飛んだ日から１００年を迎える<br />
レオナルド・ダビンチ考案とされる、ヘリコプターも空を飛び<br />
夜には始めての試みとしてミッシェル・ポルナレフの無料<br />
コンサートがシャンドマルスの広場で行われる。<br />
サルコジー大統領は今年の７月１４日はフランスの、<br />
ヨローッパの発展、安全、平和のシンボルとなり<br />
何よりも家族で楽しむ国民の祭日としたいと<br />
表明していた。<br />
日本では１４日の夕方３時頃からきっと実況中継があると<br />
思うので興味のある方は見て頂けるだろう。<br />
明日は朝８時からパレードの実況生中継とテレビが言っていた。<br />
いまパリは１４日の午前１時になっている。<br />
数時間前までパリの街のあちこちにある消防署の中庭で<br />
ダンスパーテイが行われていた。花火の音も時折聞こえてくる。<br />
一つの輪になって踊る日本人の盆踊りとは違って<br />
フランス人たちはカップルで踊る。老いも若きも踊る。<br />
とにかく踊るのが好きな人たちだ。<br />
この夜のバル（BAL,舞踏会と訳すにはちょっと違うだろうけど，<br />
街の舞踏会でもある）ではアコーディオンが聞こえ、<br />
おもいっきり古い歌も歌われる。<br />
ダミアのピアフのマリーデユバのそしてフレエルの<br />
青いジャヴァ、アコーデイオン弾き、ちじれ毛の男、<br />
サンジャンの恋人、このパリ祭の夜の舞踏会には<br />
今も昔もミュゼットがよく似合う。<br />
この１３日の前夜祭の様子が１９３２年に<br />
ルネ・クレールが作った映画＜７月１４日＞の<br />
舞台になっている。この映画の邦題が＜巴里祭＞と<br />
付けられ、可愛くてきれいなアナベラの人気で<br />
映画は日本でも大ヒットした。<br />
それ以後７月１４日は日本人には<br />
＜パリ祭＞の日となった。<br />
リスゴーティが歌ったこの映画の主題歌<br />
＜巴里のあちこちの町内では＞も邦題は＜巴里祭＞<br />
となってフランスでも日本でもヒットして<br />
日本ではいまだに歌われている。<br />
この邦題＜巴里祭＞はたぶんに意訳だが僕は気に入っている。<br />
何となく情緒がありしゃれていて，<br />
きっとその当時の日本人には<br />
巴里という字を見るだけで胸がときめいたのだろうから。<br />
１４日の夜は毎年恒例の花火大会がエッフェル塔と<br />
シャイヨー宮のあたりでこの日の締めくくりに開かれる。<br />
フランスの花火の歴史も古くルイ１４世も花火が好きだった。<br />
日本の方が遥かに豪華絢爛だと３０年前に初めて見た時には<br />
感じたものだがこのごろは随分フランスの花火も色んな<br />
テクニックを盛り込んで大掛かりに華やかになっている。<br />
２年前にフランス人の友人に誘われて初めて<br />
エッフェル塔の近くまで花火を見に行った。<br />
京都の祇園祭の宵山以上の人で大変な思いをした割には<br />
セーヌ川河畔の大きなプラタナスの並木に邪魔されて<br />
良く見えなかった思い出がある。<br />
ポンヌフ橋からはエッフェル塔がよく見えるので<br />
花火もきれいに見ることが出来る。<br />
ただフランスでは何事も日本のように時間通りには<br />
始まり終わらないのでいつ始まるかわからない花火を待って<br />
橋の欄干によじ上っていなければならない辛さは<br />
がまんしなければならないけれど。<br />
明日、僕のシャンソン仲間のフランソワの家で<br />
クスクスパーティをするから来いと誘ってくれた。<br />
彼らはモーリス・シュバリエが生まれた下町メニルモンタン<br />
に住んでいる。そこは結構高台になっている所なので<br />
エッフェル塔もよく見える。<br />
きっと花火もよく見えるだろう。<br />
食事の後コーヒーを飲みながら。<br />
パリ祭が終った翌日多くのフランス人達は<br />
バカンスに出て行くだろう。<br />
パリの街がだんだんと静かになっていく。<br />
フランス革命と７月１４日のパレードの歴史に<br />
興味のある方のために<br />
日本語とフランス語でのサイトのアドレスを載せておく。<br />
宜しければどうぞ。<br />
http://ja.wikipedia.org/wiki/フランス革命<br />
http://revolution.1789.free.fr/<br />
http://fr.wikipedia.org/wiki/D?fil?_militaire_du_14_juillet<br />
http://ja.wikipedia.org/wiki/フランス革命記念日<br />

]]></content:encoded>
    <dc:subject>日記</dc:subject>
    <dc:date>2007-07-14T00:33:04+09:00</dc:date>
    <dc:creator>ワサブロー</dc:creator>
    <dc:rights>ワサブロー</dc:rights>
  </item>

  <item rdf:about="http://wasaburo.officekuroko.com/?eid=443602">
    <link>http://wasaburo.officekuroko.com/?eid=443602</link>
    <title>パリでのバーゲン</title>
    <description>バーゲンシーズンを前にして、ある有名ブランドの
顧客バーゲンに誘われて出かけた。
日本の様子は知らないがフランスではこのバーゲン
というものの特殊な一つの文化が出来上がっている程
みんながそれぞれの趣味と懐具合に合わせて一様に
バーゲンに出かけていく。...</description>
<content:encoded><![CDATA[
バーゲンシーズンを前にして、ある有名ブランドの<br />
顧客バーゲンに誘われて出かけた。<br />
日本の様子は知らないがフランスではこのバーゲン<br />
というものの特殊な一つの文化が出来上がっている程<br />
みんながそれぞれの趣味と懐具合に合わせて一様に<br />
バーゲンに出かけていく。<br />
フランスでのバーゲン期間は１月と７月でこれは<br />
法律によって決められている。<br />
始まる日も終わる日も決まっていてそれを破ると<br />
大変な罰金が科せられる。<br />
その期間になると有名無名を問わずすべての店、<br />
ちろんエルメスもシャネルもプラダもサンローランも<br />
あらゆるブランドの店もすべてバーゲンになる。<br />
もっともエルメスなどの超一流の店は普段の店は<br />
そのままで２階などでバーゲンが行われる。<br />
日本と違うもう一つの所は洋服屋だけではなくあらゆる<br />
種類の店がバーゲンになる。<br />
本屋も文房具屋も電化製品の店も靴屋も。<br />
もちろんバーゲンをしない店もある。<br />
不動産などは昨日まで３０００万円で売りに出ていた<br />
アパートが急に２０００万円でバーゲンに出されると<br />
いうことは勿論無い。<br />
今日のバーゲンは顧客だけを対象としたもので一般に<br />
行われるバーゲンとは全く関係はないがそれでも<br />
一応年に２回決まった時期に行われる。<br />
招待状に書かれていた時間より１時間前についてみると<br />
既にもう１００人くらいの人の列が出来ていた。<br />
服を買うのに並んでまでと思ったがわざわざ来たので<br />
今更帰るのもと思い並んだ。１時間並んで入り口が開き、<br />
それぞれが身分証明書を提示して入れてもらえた。<br />
本当に＜入れてもらえた＞という感じだった。<br />
これも日本と違うところで店は品物をお客に売ってやり、<br />
お客は売っていただくという精神がフランスには<br />
まだ生きている。もちろん僕がフランスに初めて来た<br />
３４年前と比べると信じられないくらい商売という面での<br />
フランス人の精神も変化したがまだまだ個人的には<br />
＜おおきに。ありがとうございます＞と<br />
へりくだるまではいかない人達も多く居る。<br />
この点ではパリジャンは京都人に似ている。<br />
京都も隣の大阪とは大いに違い、伝統的な店では<br />
＜すんまへん、ちょっとこれいただけまっしゃろか？＞と<br />
お客がへりくだって、店の主人は＜なんどす？<br />
あ、これどすか、ちょっとまっとおくれやす＞と言う<br />
返答が帰ってくることもしばしある。<br />
お客が＜すんまへん＞とあやまって買っていただく方が<br />
＜なんどす？＞と高飛車にでる。僕なんかは店に<br />
お客が入って＜すみません＞といっているのに<br />
＜なんどす？＞とはなんや！＜はあ